主の栄光があたりを照らしたので
日本福音ル−テル都南教会牧師 太田一彦
「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」 (ルカ2:8)
地は神の栄光に満ちているが、栄光を知る知識には満ちていない。
確かに全地は主の栄光で満ちているが、人間はそれを悟らない。
栄光は私たちの目の前にあるが、握り締めるには遠すぎる。
ヨブは言った「神が傍を通り過ぎても、私の目には見えず、神が先に進まれても私の心は悟らない。」
人生において主の栄光への覚醒は稀にしか起きない。
人間は、主の現臨に心を向けず、応答しない。
無関心によって全ての驚きの感覚を鈍らせてしまう。
これが私たちの陥る悲劇。
生活、決まりきった日常の営み、決まりきったことは驚きを阻む抵抗力である。
世界は神の栄光に満ちている。
しかし、目をふさぐ自分の手がそれらをすべて隠してしまう。
頭上にさしかざした手のために山が見えないことがあるように、罪が無限の光を見るのを邪魔する。
エゼキエルは言った「主の言葉が私に臨んだ。人の子よ、あなたは主にそむく者たちの家のただ中に暮らしている。彼らは見る目があるのに見えない、聞く耳をもっているのに聞こえない。」
しかし、いま生きている一人の人間、いや一輪の花、それは「在れ」という神の言葉の成就である。
生きていること、そのことにおいて私たちは直ちに、選択も決定も超えた仕方で神の意思を実行しているのだ。
私たちの実存そのものが、神の意思と触れ合っており、生が聖なるものであり、人間が生き抜くことが、神の喜びである。
神は、この束の間の惨めな生を軽蔑せよ、とは言わなかった。
それを高貴なものにせよと言われた。
神はあなたの生を犠牲として奉げよ、とは言わなかった。
それを聖化せよと言われた。
心を天に向けさえすればそれで十分なのだ。神は、私たちの心を求めておられる。
神は清い心を求めておられる。神は私たちの洞察を求めておられる。
しかし、決定的に重要なことは、私たちが栄光を知ることにあるのではない。
主の栄光に、私たちが知られていることを自覚することにあるのだ。
詩篇の詩人は言った「主よ、あなたは私が歩くをも伏すをも見届け、私の行く道をすべて知り尽くしておられます。
闇が私の身を包んでしまう。まわりの光が夜のように暗くなると、私が叫ぼうとも、夜すらなお 昼のように輝き、闇すらなお 光のように明るい。」
全地は主の栄光で満ちている。 |