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火水金 11:00〜16:00
火は墓地事務のみです。
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 ルーテル教会は、マルチン・ルターの宗教改革により生まれたキリスト教プロテスタント教会です。人は信仰のみにより神より義とされ、恵みのみ、信仰のみ、みことばのみという改革の精神を大切にします。日本福音ルーテル教会東教区は、首都圏から東北地区や甲信地区に及ぶ、東京都、神奈川県、千葉県、埼玉県、山梨県、長野県、宮城県に、福音宣教を展開しています。
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メッセージ過去ログ

●2004年10月

み言葉の黙想

日本福音ルーテルむさしの教会牧師 大柴譲治

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」 (マタイ11:28)

 最近心に響く言葉と出会った。10月11日に市ケ谷教会とむさしの教会の初めての合同修養会が三鷹のルーテル学院大学/神学校のキャンパスで開かれ、60名の参加者を得た。主題は「宣教する教会」。主題講演の中でルーテル学院大学名誉教授の柴田千頭男先生が動物写真家の星野道夫氏の本から印象的なエピソードを紹介してくださった。南米アンデスのシェルパたちの話である。山登りの途上で、ある所まで登山隊が進むと現地で雇ったシェルパたちが突然立ち止まって座り込み、動かなくなってしまったそうである。日当が安過ぎるのだろうということで日当を上げるから何とか動いてもらおうと思ったら、シェルパたちからは全く予想もしなかった言葉が返ってきたというのである。「わたしたちは急いで来すぎてしまったので、心を後ろに置き忘れてきてしまった。だから心がわたしたちに追いつくまでここで待つのだ」と。味わい深い言葉である。
 現代人は忙しい。「忙しい」とは「心を亡ぼす」と書く。毎日を急ぎすぎているのかもしれない。だとすると私たちも心が追いついてくるまで待つ時間が必要なのではないか。もっとゆったりとしたペースで毎日を過ごしてゆきたいものである。
 「教会」というところは私たちに「心が追いつくための時間」を教えてくれる場所でもある。心をともなってこそ私たち本来の生があり、いのちがあるのだ。主イエスは言われた。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。このキリストの招きの言葉は私たち一人ひとりに向けて語りかけられている。そのことを覚えたい。

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●2004年12月

クリスマスの喜びが皆さんの上に豊かにありますように。

日本福音ルーテル田園調布教会牧師 杉本洋一

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」 (マタイ1:23)

 新潟で起こった震災から十日後、北陸自動車道も開通しておりませんでしたが、私、勝部牧師(大森教会)佐藤牧師(千葉教会)安井牧師(本郷教会)そして、ルーサーリーグの2名の青年は、長岡、小千谷に行き、ボランティアとして働かせていただきました。私たちは、その地域にある教会か関係施設の被害復旧のお手伝いをさせていただこうと思ったからです。最終的には、小千谷のボランティアセンターに受付し、私は、各地から届く支援物資の整理と搬入の仕事へ一日、そして、次の日は、地震以降入浴していなかった老健施設でのお年寄りの入浴介助でした。一人のお年寄りが、他所からきた私に、語ってくれました。「ふつうのことは当たり前じゃない」と。朝起きていつものように顔を洗い、歯を磨くことが出来ない。水さえ出ない。ガスも使えない。電気も水道もだめ。日常の便利なことは何一つ出来ない。お金を持っていても、物が買えない。着る物さえない。「いつものふつうのことが、当たり前に出来るのでなかった」と言う意味です。不安な夜を迎え、朝が来た時の嬉しさ、水が飲めて命が助かったことをこれほどありがたいと思ったことはなかったということでした。
 いろいろなものを持ちすぎて、持ち物に頼る生活に慣れている私たちです。
 こんな時、何が私たちの支えとなるでしょうか。生きる安心は何でしょうか。
 聖書の言葉の通り、なくてならないものはそんなに多くはないでしょう。困難な状況においても、それでも、神さまがともにいて生きる勇気を与えてくださることを心に留めたいと思います。「インマヌエル」(マタイ1:23)という言葉は、「神さまが私たちとともにいてくださる」ので恐れることはないと言うものです。
 クリスマスは、暗い夜に神様の独り子を、この世に送ってくださった出来事なのです。あなたのために。わたしのために。

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●2005年1月

キリストにある新しさに生きる

日本福音ルーテル三鷹教会牧師 平岡正幸

「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:2)

 2005年、新しい年を迎えて、みなさんそれぞれにあたらしい抱負を抱かれておられることと思います。標記の聖句は、私が、洗礼を受けられた方たちの贈呈聖書にいつも書き入れる聖書の言葉です。
 新しさとは何かをこの聖句を読み返して思います。私たちは、年が変わろうと環境が変わろうと、あまり変わらないのが自分自身ではなかろうかと思います。これはちょっと古いですが、過去の年始のコマーシャルに、野球選手、イチローの「変わらなくちゃ」とか、ビートたけしの「あんたが変わらんで何が変わる」とかいうのがありました。
 自分が変わる?なかなかそうはいきません。しかし、この聖句は、「キリストがわたしの内に生きている」と言っています。そしてこの聖句は、初代教会の洗礼式文の一箇所であったのではないか、と言われています。そこからパウロが引用してきたようなのです。
 キリスト教の洗礼は、水の中に沈むという儀式の意味を、主イエスの十字架において私も共に死んだのだ、と理解します。古い自分はキリストと共に死んで、キリストが私自身の新しさとなっていると信じます。
 私が東京YMCAのliby(Let it be YMCAの略)というフリースペース(子どもたちがありのままに過ごせる居場所という意味)に設立のときから関わって7年になりますが、学校へ行けない子どもたちや引きこもりの子どもたちの支援をしている施設です。子どもたちは引きこもりがちなので、そんなに多くの子供が通える状態にあるわけではありませんが、小学生や中学生だった子どもたちも、大学生となったり、働いたり、それぞれの道を歩み始めています。
 変わるということは時間がかかることなのだ。それも内側から出てくるものがその子の力となるまで、待つことが大切なのだ。と常々思わされています。
 この一年をはじめるに当たって、私が変わるのではなくて、私の内におられるキリストの新しさに生きることができるように願い、進んでゆきたいと思います。

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●2005年2月

スターたちの支援金

日本福音ルーテル日吉教会牧師 浅野直樹

「この貧しいやもめは・・・、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」 (マルコ福音書12:43-44)

 年末から年始にかけていろんなスポーツで世間は賑わった。格闘技ブームはこれまでの日本の常識、「大晦日は紅白歌合戦」をコーナーに追いつめ攻勢をかけた。春は曙、いやいや大晦日は曙。腐っても鯛、なんのなんの、敗れても曙。楽しませてもらいました。
 スポーツ界はスマトラ沖地震の大災害にも黙ってはいなかった。団体や個人から巨額の支援金が寄せられていると新聞が報じていた。こういうニュースがあると庶民の性か、そのつもりがなくても金額が目につく。額がすごい。
 カーレーサーのシューマッハーがなんと十億円。松井秀喜選手が五千万円。芸能界も反応した。女優のサンドラ・ブロックが一億円、ヨン様が三千万円。
 私が気づいた個人名はこのぐらいだが、それ以外にも各界の著名人たちが次々と大きな思いやりを示したことだろう。けれどもその一方でこういうことが世間に報道されてしまうと、こうしたお金持ちはとても複雑な気持ちになってしまうのでないだろうか。なにしろお金の額が直に評価になるのが彼らの世界。慈善活動や公共事業に名前を連ねると、芸能人などはそれがイメージアップにつながる。支援の目的はあくまでも被災地の人々の救済に違いないが、俳優としてのイメージとどうつながるかという計算が頭をよぎることは、彼らの職業がら仕方のないこと。ライバルスターがいくら出したかを見届けて、自分はその上を行くという作戦もありだ。誰それよりも多いとか少ないとか、そのうち週刊誌がネタにするのは目に見えている。そんなことなら下手に出すよりも出さないほうがマシ、という決断も出よう。
 わたしたちがよってたかって献金しても、金額は上に並べた誰一人にも及ばない。この新聞記事をみて即座に思ったことはそのことだった。聖書に学びみことばを聞いて、人に献げることの大切さを日々教えてもらっている私たちだが、華々しい活躍をするスターたちの貢献の前だとまるであぶくのよう。
 貧しいやもめが神殿の境内にやって来て、なけなしのレプトン銅貨二枚を賽銭箱に献げた。それを見てイエスは言った、「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(マルコ福音書十二章)
 このみことばを読むと、わたしたちのわずかながらの献げものも尊いことがわかって嬉しいが、同時に今度はわたしたちが意外にも、富めるものであることを言い渡される。やもめのように生活費を全部というわけにはいかないからだ。貧しくとも献げることができたことを喜び神に感謝し、富めるものでありながら献げられなかったことの赦しを神に請う。それが神とともに生きるわたしたちの姿だろう。
 だれがいくら出したのかと詮索するのも興味深いが、世の出来事からこれからを生きる姿勢と考え方を学びとっていくことをまず身につけたい。

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●2005年3月

キリストの苦難を偲ぶ四旬節

日本福音ルーテル羽村教会牧師 高井保雄

「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。」 (マタイ4:1-2)

 今年はイースター(復活祭)が3月27日となっている。イースターはキリスト教の祭日としては最も古いものだそうだが、日本の社会ではクリスマスと比べて全くと言って良いほど認知されていない。その理由はクリスマスなどと違って日にちが毎年必ずといって良いほどに変わる移動祭日のためであるからということのようだ。なぜ変わるのかと言えば、それはイースターが現在の太陽暦より古い太陰暦、即ち月の満ち欠けによる暦に関連づけて定められているためだ。ちなみにその決め方は、その年の春分の日の後の満月の後に来る最初の日曜日と定められている。それが今年は3月27日となるのだ。
 「四旬節」とは文字通り40日間を意味する教会暦の季節で、このイースターからさかのぼる6つの日曜日を除く40日間を指す。この期間がキリストの荒れ野の40日間の試練と十字架の苦難を偲ぶ時とされている。その最初の日が「灰の水曜日」で今年は2月9日がその日にあたる。灰をかぶって悔い改めを行うことから四旬節が始まる。昔からこの季節は断食がなされたり、歌舞音曲や結婚式等が慎まれた。この季節には肉や卵を食べないというところから、「灰の水曜日」の前にカーニバル(謝肉祭)が盛んになり、イースターに卵を食べたところからイースターエッグの習慣が生まれたのだそうだ。だが、そのようなことも、今や、人々の目には季節の彩りとしか記憶されていない。むしろ、2月14日のバレンタインデーの一ヶ月後の3月14日はホワイトデーだというのが日本独自のこの時期の巷の季節感となりつつある。
 ところで、日本の3月にはもうひとつの顔がある。3月は卒業の時なのだ。桜舞う春風の中、下は幼稚園から、上は定年退職まで、日本中、お別れの季節となる。受験や就職にがんばった人たち、もう一度チャレンジする人たち、懐かしい場所を去る人たち・・・人生の光と影が交錯する時だ。いずれにしても、一つのステージを終えて、次のステージに向かうのがこの季節なのだ。
 キリストはこの季節を、ひとり試練と苦難のうちに歩まれた。そして、その究極に「復活」がある。今、人知れず、その同じ道を歩む人たちの上に、キリストの限りない祝福あれと祈る。

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●2005年4月

月は何を見たか

日本福音ルーテル八王子教会牧師 宇野正徳

「夜をつかさどる月と星を造った方に感謝せよ。慈しみはとこしえに」 (詩篇136:9)

 復活の主のみ名を讃美いたします。
 今年のイースターはこころなしか早いイースターであったように思います。イースターはクリスマスとは違って祝日が一定していませんので年によって早くなったり、遅くなったりします。早いときで3月半ば頃、遅いときで4月半ば頃になります。その理由は、主イエスの受難と復活がユダヤ教の過越祭と密接に関係しているからです。過越祭はユダヤ暦のニサンの月(3月-4月)に行われますが、キリスト教会は、325年にニケヤ公会議で復活祭を春分の後にくる最初の満月の次の日曜日と定めました。以来、教会はその日を復活祭主日としました。
 そんなことをふと思いながら、先日(復活祭の夜)、外出先から帰ってくるときに夜空がいやに明るかったのでふと空を見上げましたら、なんとそこに真ん丸のお月様が澄み切った夜空に顔をのぞかせているではありませんか。その光景を見て改めて復活の主日のことを思い起こしました。
 過越祭が始まるその日も恐らく先日の月夜のように輝き、受難へ向かう主イエスの足もとを照らしていたのではないかと思います。
 イエスは弟子たちとの過越しの食事を済ませ、ゲッセマネの園に向いますが、その頃は、もう日も暮れてあたりは真っ暗になっていたでしょう。しかし、月明かりは主イエスの足もとを照らし、園へ向うイエスの足を助けたです。そこに着いてイエスは弟子たちに「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と指示しました。イエスが一人で祈る間、弟子たちは心地よい静寂さと適度な暗さの中、眠りに就いてしまったのです。その静寂さの中へユダに先導された下役どもが「松明やともしびや武器を手に」(ヨハネ18:3)、イエスを捕らえようと押しかけてきました。月明かりでも十分にイエスの顔を確認できたはずですが、彼らは念には念をと松明やともしびをイエスの顔に近づけ、顔を覗き込んだのです。
 イエスは捕らえられ大祭司カヤファの屋敷に連れていかれました。その中庭で僕や下役たちは寒さのために炭火をおこし火にあたっていたとあります。寒暖の差の激しい中東の気候の中では、夜になれは相当に冷え込みます。炭火をおこし、火にあたるのは当然でした。イエスはその寒さの中、手足を縛られ大祭司の尋問を受けていたのです。ペトロの師イエスに対する思いはどうだったのでしょうか。ペトロは下役に交じって火にあたっていたのです。そのとき鶏が三度鳴いたのです。あたりは朝の明るさを徐々に取り戻しつつあるときでした。
 復活祭が春分の後にくる最初の満月の次の日曜日ということを思い起しながら、ふとそんなことを考えました。

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●2005年5月

大いに踊れ

スオミ・キリスト教会 バーヴォ・ヘイッキネン

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王がくる。彼は神に従い、勝利を与えられた者高ぶることなく、ロバに乗ってくる雌ロバの子であるロバに乗って。」
(ゼカリヤ9:9)

 今日の聖書の日課は、「娘シオンよ、大いに踊れ」という言葉で始まります。預言者ゼカリヤは、「踊れ」という言葉ではなく、「大いに踊れ」と言っているのです。
どうしてそういう強い表現を使ったのでしょう。きっと理由がありますね。預言者ゼカリヤには、二つの理由があったと思います。その二つの理由を学んで行きたいと思います。
 第一の「大いに踊れ」と言った理由は、「見よ、あなたの王はあなたの所に来る」からでしょう。どういう王について預言者ゼカリヤは言っているのでしょう?この王は、イエス様であります。マタイ21章の箇所を見てみましょう。
 イエス様は御自分の人生の最後の春にロバに乗ってエルサレムに入ってくださいました。マタイは「こうしたのは、預言者によって言われたことが、実現するためである。すなわち、シオンの娘に告げよ、見よ、あなたの王がおいでになる、柔和なお方で、ロバに乗って、くびきを負うロバの子に乗って。」と書かれています。
 そしてエルサレムに入ってくださったイエス様は十字架の上で死んでくださったのです。そしてイエス様の罪状書きには「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」とかかれ、「十字架の上にかけさせた。」とヨハネは書いています。
 けれどもどうして十字架のひどい出来事について、私たちが「大いに踊れ」なければならないでしょう。この質問は核心をつくものです。そして正しい答えは御言葉から見出すことが出来るのです。その答えこそ聖書に何回も何回も書かれてあることです。例えば、イザヤ書の第53章には次のようにかいてあります。「真に彼は我々の病を負い、我々の悲しみを担った。しかるに、我々は思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
 しかし彼は我々のとがのために傷つけられ、我々の不義のためにくだかれたのだ、彼はみずからこらしめを受けて、我々に平安を与え、そのうたれた傷によって、我々は癒されたのだ。」と書いてあるのです。これは大きな喜びを言っているのです。
 ところで、ルターは、イエス様は三回にわたって、世に姿を現すと言っています。一回目は、イエスは「聖霊によってやどり、おとめマリやから生まれたことです。二回目は彼が今、御言葉を通して私たちのもとにいらっしゃるということです。そして三回目は、最後の日に「生きている人と死んだ人をさばかれるためにくる」ことです。
 今日は恵みの日であります。今日はイエス様は義なるものであって勝利を得、柔和であって、御言葉を通して自らを現わされるのです。ルターは「主が,ご自身の清くとうとい血、罪なくして受けた苦しみと死とをもって、失われ、罪にさだめられた人間である私を、すべての罪と死と、悪魔の力とから救い出し,あがないだし、勝ち取ってくださったことを私は信じます。」と告白しているのです。
 イエス様はそういう王であります。そしてその王が我々に本当に必要な王なのです。だから、御言葉を通して現されるイエス様を信仰によって受け入れましょう。

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●2005年6月

人間らしさ

日本福音ルーテル市ヶ谷教会牧師 斉藤忠碩

「義に飢え渇く人々は、幸いである。・・・・・心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る。」(マタイによる福音書5章)

 以前よく「男らしさ」とか「女らしさ」などと言われました。しかし今日は、「個性を大切にする」ということが言われるようになりました。私は、男らしさや女らしさや個性を言う前に、まず第一に「人間らしさ」ということを考えることも大切だと思います。
 人間の人間たるゆえんは何かと言うことです。社会的地位が高いこととか、知名度が高いことなどがそのまま「人間として立派である」ことにつながらないのと同じように、また健康な人、学歴のある人、財産のある人が、常に「人間としていい人」とは限りません。ですからエリートであること、有名であること、他人よりも早く出世すること、スマートな人、美人であることが、人間らしい人とは限らないと言うことを、誰もが知っているはずなのに、現実の問題に直面するとき、多くの人々がこれらのことを、「人生の目的」と思い込んだり、取り違えたりして、これらのことを身につけようとして必死に求めているのではないでしょうか。とすれば恥ずかしいことです。
 聖書のマタイによる福音書5章6節、8節に「義に飢え渇く人々は幸いである。心の清い人々は、幸いである。」と言われています。キリストは、人間の幸せとは、正義を求め、心の清い人であるということを何度も何度も繰り返しはっきりと言っています。これらのキリストの言葉を別の面から見れば、たとえ私たちに財産や健康や知名度や学歴や社会的地位がないとしても、すべての人は心の持ち方によって、確実に幸せになれると言うことを説いておられるのです。どんな人でも、例外なく、それぞれの立場や境遇に応じて正しいことや良いことは出来ますし、清い心を持とうという熱意と努力さえあれば持つことが出来ます。
 私たちは、「あなたのおかげで、本当に嬉しかった」と言われるような「良い人」となりたいものです。反対に「あの人さえいなければ・・・・」というような人にはなりたくないものです。
 皆様の上に神様の祝福が豊かにありますようにお祈りします。

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●2005年7月

驚くべき恵み

日本福音ルーテル保谷教会牧師 平岡仁子

”主なる神をたたえよ イスラエルの神 ただひとり驚くべき御業を行なう方を。” (詩篇72:18)

 詩篇72編はイスラエルにおいて毎年祝われた、王の即位式、または新年祭といわれる祭りに於いて用いられた詩篇でした。この祭りはイスラエルの民にとって、ヤハウェによる正義と平和が地上に実現される世界秩序の回復をもたらすことを意味しました。具体的には、イスラエルの民は、異教の農業的祝祭を、自分達の救いの出来事に置き換え、祭りを通して神がイスラエルの民にされたことを思い起こし、感謝すると同時に、今ここでの神との出会いを体験することによって、神の救いを現実のものとしたのでした。
 イスラエルの民にとって祭儀は体験を意味しました。即ち、神が人間とどう関わったのか、また今どう関わっているのか、そしてこの先どのように関わってくれるのかを体験する時であったのです。言い換えるなら、今、ここで生きた神に出会うことが礼拝であったのです。ユダヤ人哲学者A.J.ヘッシェルは、人間が神に出会う時体験する重要な感情は「驚き」であると言います。「宗教的伝統が我々のために用意してくれる宝は数多くあるが、驚きという遺産はその一つである。”神”が意味するものと礼拝の重要性への理解を抑止してしまう最も確実な方法は、物事を当然のこととして受け取る習慣である。」
 人が礼拝において体験すること、それは”驚き”であると言います。確かに聖書の中には驚くという言葉がたくさん出てきます。イエス様の言葉を聞き、イエス様のなさったことを見て人々は驚いたと聖書には何度も書かれています。生きている神と出会うということは大変な驚きです。そして救われるということはものすごい驚きであるでしょう。
 しかし、時として私達は自分が信仰をもっていることさえも当たり前という感覚に陥ることがあるのではないででょうか。あの有名な讃美歌アメージンググレイスは、まさにこの驚きを歌った讃美歌です。驚きこそが神との出会いであり、私達が御言葉を聖礼典を通して神に出会う事が出来るとは、驚き以外の何ものでもないのではないでしょうか。72編18節 ”主なる神をたたえよ。イスラエルの神、ただひとりの驚くべき御業を行う方を。”イスラエルの民は祭儀を通して、過去の出来事を思い起こし、また未来の出来事を待望することによって、今自分達が神の恵みにいれられていることを体験しました。そして、この詩篇が歌う神の到来はまさにその驚きと喜びを歌っていると言えます。12節〜14節”王が助けを求めて叫ぶ乏しい人を助けるものもないお貧しい人を救いますように。弱い人乏しい人を憐み、乏しい人の命を救い、不法に虐げるものから彼らのいのちを購いますように。王の目に彼らの血が尊いものとされますように。”神が支配する世界の秩序は憐みです。それ故、イスラエルの民は、この神の憐み故に希望を持ち続けました。何故なら、あのエジプトでの苦難から救い出した神は、イスラエルの民を決して見捨てないお方であるからです。 
 そして私達は、この希望を十字架の死によって神に見捨てられたお方、イエス・キリストに見るのです。キリストは、人間の神からの離反を打ち砕くため、神から徹底的に見捨てられることによって罪人と成られました。キリストにおいて神は、神が神でありえない場所、愛し命を与えるその場所で見出されます。何故なら、神の憐みは、キリストの十字架によってこの世に実現されたからです。だからキリストの十字架こそが私達にとって驚きです。私達にとって真の王とは、裏切りという平和によって御自身の命を与え、罪人という権力によって愛を示し、十字架という富によって私達の命を購ったお方。
 イエス・キリストこそが私達の真の王、驚き、憐み、そして希望です。
 19節 ”栄光に輝く御名をたたえよ。栄光は全地を満たす、アーメン。”

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●2005年9月

かけがえのない今

日本福音ルーテル保谷教会協力牧師 伊藤早奈

主は言われます。「天の国は次のように例えられる。」と。 (マタイ13:44-52)

 今、私たちに示される「天の国」とは、遠い空の上の理想的な世界としてではなく、人にとっての畑であり、商人にとっての高価な真珠であり、魚をとる人々にとって網でとれ、岸へと引き上げられた獲物の中にあるものなのです。それぞれのものは、人を喜ばせ、溢れた喜びのうちに手に入るもので、持っている全てを売り払うことは「宝」を手に入れるための条件ではなく、その人が喜びに溢れた結果に起こることなのです。私たちの心の全てが喜びへと向けられるとき、今まで持っていた価値観や、しがらみが、必要なくなるのです。
 今を生きている私たち一人一人にとって、何がそのようなものであるのでしょうか。もう、今の時代には関係なく、わかりにくくなっているのでしょうか。そうではなく、それは今も私たちが生きているこのただ中に確かにあるのです。
 私たちは今、特別、感じることもなく、当たり前のようにあるものなのです。それは、空気のようなものであり、私たちが気付くことなく神様によって、注がれているものです。それに気付いたとき私たちは喜びに溢れ、今ある全てを捧げることを惜しいとは思うことはないでしょう。
 それは、神様の愛による、かけがえのない「時」であり、私たちに与えられる私たち一人一人の出会いです。そして、神様の愛によって生かされている一人一人の命の中にあるのです。
 私たちは一日24時間という定められた時間の中を生かされています。その時間のことを、聖書が書かれているギリシャ語ではクロノスと言います。しかし、「時間」を表す言葉の意味は一つに留まりません。一日24時間というこの世の定められた「時間」は、働いていたり、忙しくしているとつい、自分が追いかけられているように感じられる時間です。しかし、そのように表される時間とは別に、私たちにはもう一つ大切な時間、「時」と言うものが神様から与えられています。それがカイロスとギリシャ語で言われている「時間」や「時」を表す言葉です。
 神様から与えられる「時」それはかけがえのないもので一瞬でもあり、永遠なのです。
 一日24時間という定められた時間というのも私たちは与えられ生かされています。その中において神様から与えられる「時」、を感じられたのなら、それは「かけがえのない時」一人一人に与えられる「宝」となるのではないでしょうか。
 私たちが、一瞬一瞬のかけがえのない「時」という「宝」を与えられていることに気付くとき、それは喜びに包まれたものになるのです。
 喜びそれは、無条件に愛おしいものに対する思いであり、例え様々なしがらみや、価値観などが、今まで自分を縛り付けていたとしても、それは必要ないものとして、「宝」と共にあることを選ぶ永遠へと私たちを導いてくれるのです。
 「ありがとう。ひとの寿命は分からないからこそ大切な人と過ごせる時間は宝物ですね。」
 この言葉は、今年7月の末に出産した友達へ私が「おめでとう」と伝えたときに返事として送られた言葉です。彼女は昨年8月に、わずか4か月の短い命で乳児突然死症候群のため、わが子を亡くしました。この悲しみの中で、また新しい命を授かり、今年7月の末に出産し、今は毎日赤ちゃんと寝たり遊んだりしながら過ごしているということです。そのような友達からの言葉です。
 「ありがとう。ひとの寿命は分からないからこそ大切な人と過ごせる時間は宝物ですね。」
 私たち一人一人に与えられている出会いや一日一日も同じではないでしょうか。私たちは一瞬一瞬のかけがえのない「時」という「宝」を与えられています。そしてその神様から送られる宝は永遠という命なのです。

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●2005年10月

種の中に神の国が

日本福音ルーテル市ヶ谷教会協力牧師 D.パーソン

「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔く時には、地上のどんな種よりも小さい。」 (マルコ4:26-32)

 神様のことをだれかに説明すると、どういう言葉を使うでしょうか。偉大な、創造主、愛、全能のというような言葉を使うでしょうか。「小さい」という言葉はいかがでしょうか。
 イエス様は次のようにおっしゃいました、「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔く時には、地上のどんな種よりも小さい」と。イエス様が神の国のたとえの例として最も小さな種のことを使いました。からしの種はほとんど見えないそうです。あってもなくても、分からないぐらい小さなものです。神の国はそれと似ているとイエス様は言われます。
 これは、神の子イエス様が生まれたことを思い出します。それについて、使徒信条に次のことが書いてあります、「主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ」と。神の子イエス様は胎内の赤ちゃんでした。最初はイエス様が数細胞に過ぎませんでした。からし種より小さいものです。そして、神の子イエス様は馬小屋に生まれました。小さな、弱い赤ちゃんとして誕生しました。神様は偉大なものとよく聞きますが、イエス様が教えて下さったことは神様が小さくて、弱いものとしても現われているということです。
 今日の福音書のもう一つのたとえ話にはイエス様は種、つまり、神の国が知らないうちに成長するということを強調しました。イエス様がおっしゃいました、「種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」と。
 神の国あるいは、神様自身が種のような小さいものにも入って、働いておられます。その働き、その信仰の成長はどうやって起こるか、よく分かりません。神秘的なことです。しかし神様はそこにいらっしゃいます。
 私は3人の人たちのおかげで、牧師になる決心をしました。その中の一人は私の堅信クラスの先生でした。先生の名前はベッテイ フライバーガでした。当時、彼女は中年の女性でした。彼女の愛する娘さんを事故で亡くしても、教会の奉仕を続けました。素晴らしい方でした。堅信クラスでは私たち生徒は色々ないたずらをし、あまりいい生徒ではありませんでした。特に、私ともう一人の友達はいつも、いたずらを率先してやりました。
 ある日、私達のいたずらはいつもよりひどくて、フライバーガ先生が泣きながら、クラスから走り出しました。それは僕と友達のせいでした。
 その後、私と友達は牧師の書斎に呼ばれました。そこには、フライバーガ先生もいました。その時、牧師とフライバーガ先生は私達二人のやったことが悪かったということを言いました。しかし、彼等の叱り方は普通の社会の叱り方と違いました。私はそれを強く感じました。私達が悪かったのに、彼等の態度と言葉に愛を強く感じました。私達が悪かったのに牧師とフライバーガ先生は私達のことを本当に大切に扱ってくれました。フライバーガ先生は熱心な信徒でしたし、愛する娘さんが最近亡くなり、辛いときではありましたが、先生は愛を持って、毎週私達を教えにきました。そして、私が悪かったのに、先生は愛を持って、私達と話しました。その時、私が思ったのは、「ここに何か、違うものがある」と感じたのです。その時、私は見えなかった種が私の心の中に植えられました。それは私の人生に大きな影響を与えることになりました。フライバーガ先生を通して、当時、神様はよく見えない、小さな働きをとおして、私の信仰の成長なして下さったのです。
 これは私の個人的な話ですが、市ヶ谷教会の50周年を祝う礼拝の中に同じような種の話を聞きました。その時、元の宣教師であるヌデイング先生の50年前の話を聞いて、市ヶ谷教会も最初の頃は小さな種のようでした。当時、市ヶ谷教会は礼拝堂のない、会員も一人もいないところから今日の恵まれた教会に成長してきました。ヌデイング先生がおっしゃったように、市ヶ谷での宣教をやりはじめた時、その働きから教会が生まれてくるかどうか分かりませんでした。それだけではなく、こんなに大きな教会になるとは想像もつかなかったそうです。神様の恵みとはそういうものです。神様の恵みは私達の期待を大きく上回ります。その恵み、その愛は小さなものにもあります。よく見ないと見えないかもしれませんが、そこには確かに神様の愛があります。神様はその種を蒔くために、フライバーガ先生や私やあなたを使います。その種は小さいですよ。あまりにも小さいので、いつ蒔いたか、よく分からないかもしれません。私はフライバーガ先生に感謝を言った時、フライバーガ先生は、自分の言葉がそんな大きな影響を与えたかとは想像もつかまなかったそうです。でもフライバーガ先生をとおして、確実に神様の愛は蒔かれたのです。
 皆さん、自分の小ささと弱さに神様が働いているということを覚えて下さい。そして、感謝して、神様の良い知らせ、その愛のうちに歩みながら、種を自由に蒔きましょう。アーメン。

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●2005年11月

空の鳥、野の花を見よ!

日本福音ル−テル大森教会牧師 勝部 哲

「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」 (マタイ福音書6章25節〜34節)

 今は自然界、すなわち山々から紅葉の訪れが里にも近づいてくる季節です。神さまは天地創造の折、地球の自転軸を少しずらされました。このために地球では春夏秋冬という季節が生まれました。それは人間の生涯と同じように似せて造られたのかも知れません。私たち人間は、人生において夏のように暑いときもあれば、何をしても冬のように芽生えのない冷たく心が寒いときがあります。人生80数年間という「時間」の中に生きている限り、その繰り返しです。旧約聖書コヘレトの言葉の3章1節以下に、「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」と、生まれる時から死ぬ時までに人生いろいろな時があるといっています。
 この神さまが支配される人生という時の中に私たちは生きています。ただ生きているという消極的な生き方だけではなく、人々は、明日という明るい日を期待し夢を持って積極的に今を生きてゆこうと生活をしています。しかし、夢を持てば持つほど、期待をすればするほど、挫折感を一旦味わえばその失望感が倍になってその人を支配します。希望が失望に終わることほど人間にとって辛く悲しいものです。
 しかし主イエスは、あの山上の説教(マタイ福音書5章1節以下)でこのように言われています。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。・・・・・・」と不思議なことを言われました。なぜ、心の貧しい人が、悲しんでいる人が幸いなのでしょうか。人生の挫折感を味わっている人がなぜ、幸いなのでしょうか。神さまは勝手なことを言われると思うことでしょう。
 人生を長い目で考えて見ましょう。人生80数年間において、先に示した春夏秋冬という季節感が人々の生涯にあるということです。良い時があれば、悪い時があります。これが人々の人生です。若い時は、少しの挫折感でも乗り越えられる若さという力が与えられており、老齢になると長い人生経験という生活の知恵で挫折感を乗り越えられるのです。
 しかし、この神さまが「いろいろな時」を与えてくださったことを知らないでいると、一時の挫折だけでその時の苦しみや悲しみから抜け出せないことがあります。特に、経験が浅い若者のときに多いものです。いつまでも、若い芽でいたいと思うことが"あせり"となり、一歩も前に踏み出せなくなります。また、人生の失敗をしたくないという思いが自らを縛りつけてしまいます。
 その時こそ、人生に春夏秋冬があることを思い出し、先の聖句を受け入れるところに救いがあります。さて深秋の紅葉は美しいものです。神さまは、地球の軸をずらされたことにより、秋という大地に紅葉という自然界の恵みを私たちに見せてくださいました。紅葉というのは、秋という時に、ある種の一本一本の樹木の葉が枯れることによるものです。赤くなり、黄色になるのは緑の葉が枯れて腐ってゆく現象です。
 しかし、一旦は枯れ落ちる葉であっても、春には、またその同じ樹木に新しい葉が芽生えてきます。私たちの人生もそのように、今は枯れてもまた新春には芽生え、新緑の季節を迎えることを約束されています。ここに、一度は死ぬ私たちであっても、神さまの支配される時の中にいる限りは、"復活"という素晴らしい約束の中に生きることが出来ます。
 主イエスはさらに言われました。絶望の中にある者に「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また、自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたは天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。・・・・」と、神さまの最も大切なものであることを示し、思い悩むなと言われています。
 神さまの時の支配の中で人生の春夏秋冬を忘れないで、良い時も、悪い時も、明日に希望を持って生きて行きましょう。

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●2005年12月

主の栄光があたりを照らしたので

日本福音ル−テル都南教会牧師 太田一彦

「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」 (ルカ2:8)

地は神の栄光に満ちているが、栄光を知る知識には満ちていない。
確かに全地は主の栄光で満ちているが、人間はそれを悟らない。
栄光は私たちの目の前にあるが、握り締めるには遠すぎる。
ヨブは言った「神が傍を通り過ぎても、私の目には見えず、神が先に進まれても私の心は悟らない。」

人生において主の栄光への覚醒は稀にしか起きない。
人間は、主の現臨に心を向けず、応答しない。
無関心によって全ての驚きの感覚を鈍らせてしまう。
これが私たちの陥る悲劇。

生活、決まりきった日常の営み、決まりきったことは驚きを阻む抵抗力である。

世界は神の栄光に満ちている。
しかし、目をふさぐ自分の手がそれらをすべて隠してしまう。
頭上にさしかざした手のために山が見えないことがあるように、罪が無限の光を見るのを邪魔する。

エゼキエルは言った「主の言葉が私に臨んだ。人の子よ、あなたは主にそむく者たちの家のただ中に暮らしている。彼らは見る目があるのに見えない、聞く耳をもっているのに聞こえない。」

しかし、いま生きている一人の人間、いや一輪の花、それは「在れ」という神の言葉の成就である。
生きていること、そのことにおいて私たちは直ちに、選択も決定も超えた仕方で神の意思を実行しているのだ。
私たちの実存そのものが、神の意思と触れ合っており、生が聖なるものであり、人間が生き抜くことが、神の喜びである。

神は、この束の間の惨めな生を軽蔑せよ、とは言わなかった。
それを高貴なものにせよと言われた。
神はあなたの生を犠牲として奉げよ、とは言わなかった。
それを聖化せよと言われた。
心を天に向けさえすればそれで十分なのだ。神は、私たちの心を求めておられる。
神は清い心を求めておられる。神は私たちの洞察を求めておられる。

しかし、決定的に重要なことは、私たちが栄光を知ることにあるのではない。
主の栄光に、私たちが知られていることを自覚することにあるのだ。

詩篇の詩人は言った「主よ、あなたは私が歩くをも伏すをも見届け、私の行く道をすべて知り尽くしておられます。
闇が私の身を包んでしまう。まわりの光が夜のように暗くなると、私が叫ぼうとも、夜すらなお 昼のように輝き、闇すらなお 光のように明るい。」

全地は主の栄光で満ちている。

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●2006年1月

クリスマス 救い主が生まれた

日本福音ルーテル藤が丘教会牧師 重富克彦

「今日、ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」 (ルカ福音書1章67-79節)

 暗い時代でした。人の命が、ぼろくずのように扱われ、侮辱、さげす、暴力が横行している時代でした。大帝国ローマにはへつらい、自国民には横暴な権力者ヘロデが治めている時代でした。未来の見えない時代でした。
 あれから2005年。この年は明るい一年だったでしょうか。力強い一年だったでしょうか。弱い者が保護され、互いに思いやりを深めることができた一年だったでしょうか。来年に希望をつなげる一年だったでしょうか。
 その社会の健康度は、子供たちの安全と、子供たちがどんな希望を持って生きているかで測れます。子供たちが安心して暮らせ、しかも、希望を心に抱いておられる社会は、未来を持っている社会です。
 かつて、幕末の頃、日本にやってきた外国人が、非常に驚き感動したことの一つが、子供たちが明るくのびのびと遊んでいて、仕事帰りの職人たちが、子供たちのために、思い思い、ちょっとしたおみやげを買ってゆく光景だったといいます。幕末といえば動乱におびえていた時代だと、私たちは想像します。けれど子供たちは今よりよほど安全で、時代全体にも、夜明け前を感じさせる希望が、どこかにあったではないかと思います。
 反対に私たちは、今、人の心がますます悪くなってゆくのを感じています。いや、「人の心は幼いときから悪い」というのが、聖書の人間理解です。ノアの大洪水後、神はこう言われています。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。」 幼いときから悪いからこそ、その悪い心を修めてゆくように、愛を学んでゆくのが、人間のつとめです。
 2005年前、クリスマスの美しい夜のすぐ後、戦慄すべき悲劇が、イエスがお生まれになったベツレヘム一帯を覆ったことをマタイによる福音書は伝えています。時の大王ヘロデは、メシアの誕生の情報を耳にし、その前後に生まれた男子を皆殺しにするよう命じたのです。大王の絶大な権力で守られているのみの心臓のような小心が、一人の赤子の誕生をいてもたってもいられなくしたのです。生まれたばかりの赤子たちは、大王の命令を受けた兵士たちの剣によって、次々に命を絶たれました。陣痛の苦しみを経て与えられたばかりの男子を、目の前で剣に刺された、母親の、そして父親の、泣き叫ぶ声はどんなに遠くまで響き渡ったことか。中には、臨月となり、今にも生まれようとしているおなかの子が、母親もろとも犠牲となったこともあるでしょう。
 子供が犠牲にされる時代は悪い時代です。希望のない時代です。子供が犠牲になる時代は、人間の罪が剥き出しになり、もはや人間によってはどうしようもないほど、自縄自縛になっている時代です。最も自由を手に入れているはずの者が、最も不自由な奴隷に落ちている。ヘロデ大王というのは、最高の権力者であり、当時のユダヤで最高に自由を手にしていた人間でした。けれども、一人の赤ん坊の誕生にも怯える最低の不自由な人間でした。おのれの保身の奴隷でした。
 わたしたちもまた、それぞれに小さなヘロデになってはいないでしょうか。自由を手にしているはずなのに奴隷。もがき、希望を求め、上昇志向に邁進していますが、心の底には確かな希望が見つかりません。
 人は、自分で自分を救えるか。答えは一つです。人は、自分で自分を救えません。自分を深く知る人ほど必ずその答えに行き着きます。では救いはないのか。救いはあります。自分を超えたところから、救いは与えられます。自分の中からではなく、自分を超えたところからです。「あなたがたのために救い主がお生まれになった」、このクリスマスメッセージは、自分で自分を救えない、私たちの中に、ひとりひとりに直接与えられるものです。

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●2006年2月

「きのう」から「あした」へ

日本福音ルーテル大岡山教会牧師 北尾一郎

「そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分っている。神の聖者だ」 (ルカ福音書1:23-24)

 これは1月29日の礼拝で朗読された聖書の一節です。マルコ福音書1章21-28節をお開きください。この箇所は、「汚れた霊に取りつかれた男」の話です。ある安息日に彼はカファルナウムという町の「会堂」におりました。その会堂に、人間の姿となられたイエス・キリストが入ってこられました。いちはやくイエスという方の正体を見破ったのは、ほかの誰でもなく、この「汚れた霊に取りつかれた男」でした。
 その時、彼は、こう言ったのですー「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分っている。神の聖者だ」。主イエスが、「黙れ、この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて、出て行ったのでした。
 その瞬間、この人の「きのう」は終わり、「あした」が始まったのです。このことこそその人の「救い」の中身です。ほかの誰でもなく、主イエスに出会うことによって、彼は「過去」から解放され、「未来」へと導かれたのです。
 私たちの場合も同じです。私たちは、クリスチャンである友人や先輩や家族を通して、教会に行くようになるかもしれません。クリスチャン作家の小説や、バッハやヘンデルの音楽や、ミケランジェロやレンブラントやルオーの作品を通して聖書に関心を持つようになるかもしれません。ミッション・スクールやキリスト教の幼稚園に通ううちにキリストに出会うのかもしれません。また、信徒や宣教師や牧師を通して洗礼に導かれるかもしれません。
 しかし、このようなことは、ほんの「きっかけ」となるだけのことです。私たちは一人一人、自分自身の霊と心で、「あの方」、「神と人間との唯一の仲保者」であるキリストに出会って、救われるのです。そうです、十字架の上で聖なる血潮を流されるほどに、私たち一人一人を「大切にしてくださる」、そのような方がおられる、ということを知って、私たちは、救われるのです。この世のわずらわしさに疲れ、自分の惨めさに打ちのめされ、絶望の中で力尽きようとする私たちのこの「存在」を肯定し、さらには、神のために必要としていてくださるのです。
 夜が終わり、「明るくなってくる時」が「あした」と呼ばれます。あなたにも「あした」が訪れようとしています。いきなり、明るい「ひる」にはならないかもしれません。しかし、長かった夜は終わりに近づき、「明るくなっていく」時を迎えるのです。あの「汚れた霊に取りつかれた男」が、キリストに出会った瞬間、本当の自分を取り戻したように。
 有名な「愛燦燦」という歌の一節を思い出しますー「過去たちは、優しく睫に憩う・・・未来たちは、人待ち顔して微笑む」。キリストに出会う人は、辛くいまわしい過去さえも、意味あるものとして受け入れられるようになる、と思います。過去からは解放されるからです。そして、未来へ導き出されるからです。
 「朝にはどうか、聞かせてください。あなたの慈しみについて。あなたにわたしは依り頼みます。行くべき道を教えてください。あなたにわたしの魂は憧れているのです。御旨を行うすべを教えてください。あなたはわたしの神、恵み深いあなたの霊によって、安らかな地に導いてください」(詩編143編8、10節)。

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●2006年3月

信仰と言う奇跡

日本福音ルーテル雪ヶ谷教会牧師 マロン・ベケダム

マルコ伝2:13-17

 数年前、とてもおかしなことを体験しました。山口県の萩の観光をしていた時、昼食を食べて、萩城の城壁の上に座って、お弁当を食べていました。四月の快晴の日でした。快晴だから、外で食べていて、突然、お弁当は爆発しました。お弁当が爆発したと言えば、とても変な言い方ですが、私の立場から言えば、主観的に言えば、私のお弁当は爆発しました。実は、違うことが起こりましたが、私の感覚は、膝の上のお弁当が爆発したと言うことです。
 とても驚いて、私は身の回りに、振り向いて、お弁当の物は、散らばりました。城壁の上にも、城壁の下にも散らばりました。とても困りました。何が起こったか、推測が全然出来ませんでした。皆さんも想像出来ないでしょう。
 然し或方は、解りました。ちょっと距離から出来事を見たから、その人が解ったのです。彼は言いました「上を見なさい。」私が青空を仰ぐと、私も解りました。鳶でした。鳶はその出来事を起こしたのです。私のお弁当から取った銀色の物を持っていて、飛んで行く鳶が見えました。爆発は、私の主観的な体験だけでした。実は、私の数十メートルの上に、青空の中に、輪を描いて静かに飛んでいた鳶はずっと見ていたでしょう。その鳶が私の上に居る事に付いて、全然気が付きませんでした。そして、突然鳶は飛び下りて、膝の上のお弁当を強く打って、銀色の物を捕まえて、飛んで行きました。然し、私の立場から言えば、膝の上のお弁当が爆発したと言うことは、言い過ぎでは無いのです。
 収税所に居る徴税人レビの体験も似ていると言えます。突然立ち上がって、イエス様に従いました。自分が突然決めたと彼が思ったかも知れませんが、実は、突然聖霊は飛び下りて、レビの悔い改めを起こして下さった様なことです。聖霊が飛び降りることは比喩に過ぎませんが、本当に奇跡でした。神様の御業でした。人の業では無かったのです。客観的に言えば、ユダヤ人にとって、罪深い者でした。本当に奇跡でした。天から打撃を受けた、と彼は思わなかったでしょう。然し実は、天からの打撃でした。急に、収税所の席から立ち上がってイエス様に従う様に成りました。天からの打撃は、比喩的な言い方ですが、本当のそんな様な出来事です。
 実は、全ての人は罪の奴隷です。今日の出来事を読むと、全ての人が罪深い者だと覚えなければ成りません。悔い改めは天から与えられる賜物です。信仰もそうです。信仰は聖霊による賜物です。本当に神様の御業でした。レビは罪人でしたが、悔い改めてイエス様の弟子に成りました。
 今日の日課に出るファリサイ派の者で、似ているもう一人のファリサイ派の者は、改心させられたパウロです。彼は悔い改めさせました。その神様の奇跡的な御業も、とても急でした。突然、イエス様は天から降って下さって、ファリサイ派の者サウロを改心させて下さいました。サウロは本当に打撃を受けて、土迄倒れて、盲目に成りました。そして、悔い改めてイエス様に従って、とても重要な弟子に成りました。奇跡でした。
 そして、元々ファリサイ派の者であったパウロは、この問題とも取り組みました。神様は何故とても熱心なファリサイ派の者を選ばないで、何故罪深い者ばかりを選んで下さったか、と言う問題でした。パウロは不思議に思っていましたが、とても深い意味も有ると書きました。ちゃんと、神様は計画を持って下さる、とパウロは書きました。神の国が人間の力に依る事では無い、と言う事が解ったのです。
 神様の結局の目的は、全人類の救いです。イスラエルが何故造られたかと言えば、全人類の救いの為でした。イスラエル、即ち、ユダヤ人の民は結局救われます。今ユダヤ人がイエス様を信じていない状態は、途中の段階に過ぎません。全ての民がイエス様を信じる様に成る為の一つの段階です。神様は本当に全ての民を愛して下さいます。全ての民を救おうとして下さいます。
 そして、招かれたのは皆の人です。本当に皆です。拒絶する事は有りますが、皆です。そして、神様の御業です。奇跡ですが、レビがイエス様の弟子に成った事の意味の一つは、一番罪深い人でも、イエス様の御招きを受け入れる事も有ると言う事です。
 私達のイエス様を信じる様に成った事も、同じ意味が有ります。全人類を救う事ですが、神様も私達の悔い改めをさせて下さるでしょう。神様はちゃんと計画を持って下さるでしょう。私達を愛して下さるから、悔い改めをさせて下さいます。世を愛して下さるので信じる様に成る様な奇跡を行って下さいます。素晴らしい神様の奇跡です。本当に神様に感謝をしています。

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●2006年4月

主は甦られた

日本福音ルーテル横須賀教会・横浜教会牧師 東 和春

「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」 (コリントの信徒への手紙一 15:20)

 4月16日(日)はイースターです。主イエスは二千年前のこの日、十字架の死を打ち破り、甦られました。死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられたのです。
 確かに復活の出来事は、人の目には愚かなことです。アテネの人々は死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言っています。祭司長たちは、弟子たちが死体を盗み出し、イエスは死者の中から復活したと言いふらしたと考えたようです。
 しかし、復活は絵空事ではありません。弟子たちが捏造したものでもありません。それどころか、彼らは心底、主が十字架上で死んだと思ったのです。ですから、ある者はその場から逃げ出し、ある者は主の亡骸を葬るために墓へと急いだのです。
 彼らが復活を信じたのは、復活の主ご自身にお目にかかったときです。ある者は交わり中で、ある者は漁の最中に、ある者は故郷への道で復活の主に出会い、主の復活を信じる者へと変えられました。信じない者から信じる者へ、主を否む者から宣べ伝える者へ、教会を迫害する者から教会を建て上げる者へと変えられたのです。
 いかにこの世を探しても、そこに神の国を見出すことは不可能です。むしろ神の不在のみを確信してしまいます。人生の消化試合を生きているように思えるときすらあり、死そのものを生きていると思えるときすらあります。しかし、この世から復活の主に目を転じるとき、神のご臨在を確信し、生きる力をいただくことができます。
 私たちに本当の希望を与え、生きる力を与えるのはこの世ではありません。自分の力でもありません。死を克服し、甦った主イエス・キリストです。復活は滅び行く者には愚かなものであっても、信じる者には神の力なのです。
 復活の主は、教会を通して、み言葉を通して今も私たちの間で生きて働いておられます。
 主は甦られた、このみ言葉があなたに命を与えます。4月16日(日)、教会ではイースター礼拝が行われます。それぞれの教会へご出席ください。ご一緒にご復活の恵みに預かりましょう。

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●2006年5月

腹を立てるな!?

日本福音ルーテル小田原教会・湯河原教会牧師 小泉 嗣

21 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。:22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。 (マタイによる福音書5:21-22)

 この言葉は、山上の垂訓と言われるイエス様の説教が記された個所の、その中でも「反対命題」と言われるイエス様の言葉です。この「反対命題」とは、読んで字のごとく、これまでユダヤ教の人々の間で大切に守られてきた律法の教え(宗教上の規則)に関し、その言葉を否定する「しかし」を用いて、イエス様が新に語られる「命題」、「教え」であります。このイエス様の新しい教えは、全部で6つあり、この言葉はその初めの命題です。
 イエス様はここで、「腹をたてる」ことに関して教えておられます。
 ユダヤ教の人々がモーセを通して神様から与えあれた10の戒めにも記されている「あなたは殺してはならない」という教えも、兄弟を侮辱し、愚弄する言葉を発する者に対する厳しい裁きがくだされる、という教えも、どれもみな、その根本的な原因は「腹をたてる」ことにある、私が教える戒めは「あなたは殺してはならない」というモーセの十戒よりも更に厳しい、その殺人や不和、衝突の原因となる「腹をたててはならない」という戒めである。とイエス様は語ります。
 「殺すな」という教えは、キリスト教にとって、また私たちの現代社会にとって、非常に大切な決まりごとです。ほとんどの人が「その通りだ」と同意する、そんな決まりごとだと言えるでしょう。では「腹をたてるな」という決まりごとはどうでしょうか?
 この教えを100パーセント、完全に守ることの出来る人間がいるでしょうか?応えは「ノー」でしょう。「腹を立てるな」という教えどころか、2000年の歴史を振り返ってみても、人類が争いを止めた時はなく、罪を犯す事を止めた時はありません。まして、生まれてこの方、人を殺したはなくても、一度も腹を立てたことがない人はいないでしょうし、情欲を抱いたことがない人、うそをついたことがない人も少ないと思います。それでは何故、私たちの事を最も良く知っておられるはずの全知全能のイエス様が、人間には実現不可能ともとれるこのような言葉を語るのでしょうか?
 話しを少し聖書の方に戻しますと、イエス様は当時、ファリサイ派や律法学者の人々と戦っておりました。彼らはモーセの十戒を律法を守る事に熱心でありましたし、当時の他のユダヤ人に比べると、確かに十戒や律法をよく守っていたと言えるでしょう、そして彼らは、自分たちは律法を完璧に守っている、自分たちの心には一点の曇りも無い、と自負していましたし、律法を守らない人々、心に曇りがある人を裁く事に熱心でありました。
 イエス様はまず、そのような人々に対して、これらの言葉を語ったのでしょう。「あなたがたは聖書を良く読んでいるし、律法を守る事にも忠実である、しかし、私は言っておく、あなたがたの中に腹を立てない者、情欲を抱かない者、妻を離縁しない者、偽りの誓いを立てない者が一人でもいようか?」このように彼らに語ることによって、神にあって、あなたがた人間はみな同じではないか、何故裁こうとするのか、何故上に立とうとするのか、そのように問いかけておられるのだと思います。
 そして、この言葉を私たちが受けとめるとき、私たちは自らの「弱さ」を写し出されている、つきつけられているのだと思います。腹を立ててしまう自分、情欲を抱いてしまう自分、嘘をついてしまう自分、そんな徹底的に「弱い」自分に気づかされるのです。このイエス様の言葉を聞くとき、弱い自分が、逃げ道が無いほどに追いこまれる気がします。
 「しかし、わたしは言っておく、あなたがたは弱い」。イエス様は私たちにこのように語りかけておられます。しかしイエス様はこの言葉で終わるのではなく、この続きの言葉も語ってくださっています。「あなたがたは確かに弱い、しかし、私は言っておく、私はそのような弱いあなたがたを愛している」と。それゆえに私たちは、弱い自分を知り、そんな弱い自分のままで、イエス様に身を委ねることがゆるされているのです。

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●2006年6月

千の風になって(A thousand winds)

日本福音ルーテル蒲田教会牧師 渡邉純幸

「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」 (ヨハネ福音書14章16-17)

私のお墓の前で 泣かないで下さい
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

あの大きな空を
吹きわたっています

(新井 満訳・講談社刊)

 この詩「千の風になって A thousand winds」は、2001年9月11日に起こったいわゆる、9・11米国、同時多発テロで、父親を亡くした11歳の少女が、一周忌に朗読したことで有名になり、日本では、朝日新聞『天声人語』(2003年8月28日)で紹介されました。また、IRA(アイルランド共和軍)のテロで命を落とした二四歳の青年が、「私が死んだときに開封してください」と両親に託した手紙の中に、この詩が入っていたというお話を読みました。この詩の作者は不明です。
 先日、知人の一周忌の席で、ご遺族がこの詩を自分に言い聞かせるように、朗読されていたのが特に印象的でした。
 このように、今も悲しみある人々の中で読み継がれています。そして多くの人々の慰めにもなっているのです。
 そこには、突然起こった不慮の事故をどうしても受け入れることのできない遺族関係の方々、この世の不条理、苦悩を超えさせる力をこの詩は与えるからでしょう。

「私のお墓の前で 泣かないで下さい  そこに私はいません 眠ってなんかいません……死んでなんかいません」

 この詩には、私たちの死という大きく立ちはだかる壁はもはや存在せず、風のように、また風となって自由に生きていることを高らかに歌い上げています。悲しみの日々を数えるのではなく、今もそばにいて見守っていることを、読む者にとっては大きな安らぎと慰めを得ることができます。
 生前、イエスは弟子たちに、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」(ヨハネ福音書14章16-17)を思い起こさせます。

(「蒲田教会・月報『ろうごう』」2006年5月号より)

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●2006年7月

長寿の祝福

日本福音ルーテル日吉教会牧師 浅野直樹

「わたしに聞け、ヤコブの家よ、イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(詩編46・3)

 全国婦人会連盟の総大会が先日名古屋で開催され、出席する機会がありました。ホテルの大会議室には全国から三百人以上の婦人たちが集い、熱気にあふれていました。
 三年に一度のこの大会では開会礼拝に引き続き、前大会から今回までの三年間に召天された婦人会員が紹介され、祈りをささげます。いただいた資料をみると教区ごとに召天者たちの名簿があり、三年間に九七名の名前が書き込んでありました。それぞれ全うされた生涯の齢もついています。司会者が一人一人の名前を読み上げるのを会衆一同と静かに聞きながら名前そして年齢をひとつひとつみつめていると、三桁の年齢がところどころに出ていました。百歳がひとり、百一歳が二人いらっしいました。さらによく見てみると九十数歳というのは全然珍しくないのです。私の祖母が渡米中に亡くなりましたが、やはり百一歳でした。日吉教会には現在ふたりの長寿がいて、九十六歳九ヶ月と九十五歳四ヶ月になります。
 世界一の長寿国という実績の片鱗がこんな身近なところにあるとは思いませんでした。高齢者の体力が十歳若返っているという調査結果にもうなづけます。
 アメリカもお年寄りが元気な国だなあと実感しました。九十五歳で補聴器なし、毎週礼拝と平日の聖書研究に来るご婦人がいました。日本での宣教師リビングストン先生のお父様は九六歳まで車を運転ていたそうです。昨年十二月に百歳を老人ホームでお祝いし、私も駆けつけました。極めつけはなんと九十三歳の現役牧師です。無論フルタイムではないですが、今でも時々いろんな施設でお話しています。
 身近に高齢者がいる、あるいはそういう話を聞くとわたしはなんとなく嬉しくなります。そのことを誇りに思えてきます。ただしそう言えるのは今のところ高齢者介護が個人的に深刻になっていないからかもしれません。介護に一日の大半の時間をとられ、体力を使い切ってしまうという厳しい現実に直面されている方からは、そんな悠長な言葉は跳ね返されてしまうでしょう。そういったたゆまぬ努力は、一人一人の長寿が一日でも長く続くようにという思いによって支えられています。

「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(詩編46・3)

 主に守られた高齢者はこのように祝福されていることを思い起こしました。

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●2006年8月

イエスの奇跡

日本福音ルーテル藤が丘教会牧師 小副川幸孝

そこでイエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。(マルコによる福音書 3章5節)

 新約聖書の4つの福音書は、イエス・キリストの生涯と教えを伝えるものですが、これらの福音書には、いわゆる「奇跡物語」と呼ばれる「病気の癒しや治癒」についての記事がたくさんあります。これらの奇跡物語は、福音書が書かれました当時の人々にとっては、おそらく、神の子イエス・キリストが為された事柄を最も明瞭に伝えるものだったのかもしれません。人間を越えた神の力を表わすのには、「奇跡物語の伝承」は、極めて有効な手段だっただろうと思います。
 しかし、科学的思考と客観的合理主義を身につけた現代人にとっては、「奇跡物語」は、大変理解に苦しむ物語で、たとえば、作家の遠藤周作さんなども、そのイエス理解では、苦しみや悲しみを共にしてくださるイエスを前面に出されて、奇跡を行われるイエスは後退していますし、私たち自身も、「奇跡行為者としてのイエス」には、どこか胡散臭いものを感じて、避けているところがあります。
 しかしながら、考えてみるまでもなく、病気や悲しみを抱える人にとって、今、ここで奇跡が行われたらどんなにいいだろうと願うことが多々あります。見えない目が見えるようになったり、動かない手足が動くようになったり、苦しめられている痛みが癒されたり、愛する者の命が回復されたり、あるいは、悩まされている生活苦から解放されたりすれば、どんなにいいだろうと思います。何か魔法のように、「チチンプイプイ」と呪文を唱えて、それですべてが解決されれば、どんなにすばらしいでしょう。人間は、自分ではどうすることもできないものをたくさん抱えて生きていますので、それが瞬時に解決されることを、本当に切実に望みます。「神の子イエスの奇跡」ということを聞けば、私たちは、そうした魔術的なことを考えます。
 10節に「病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せた」という描写がありますが、今抱えている問題を何とかしたいというそれらの人々の切実さを思うと、本当に、「チチンプイプイ」と魔法をかけて何とかならないかと思ったりします。キリスト教の「福音派」とか原理主義と呼ばれる人たちの中にも、そうした魔術的なことを主張する人々がおられます。しかし、私たちは、そうした魔術的なことは起こりえないし、また、それを主張したりすることに胡散臭さを感じます。近代科学は、そうした魔術的なことや呪詛から私たちを解放してくれましたし、そこに「うそ」や「まやかし」があることを知っています。
 聖書が描く「イエスの奇跡」とそうした魔術的なことは根本的にまったく異なっています。新約聖書の『使途言行録』にも魔術師のような人がたくさん登場するのですが、それらの人たちとキリストの弟子たちは明瞭に区別されています。「イエスの奇跡」は、表象は神話的であっても、魔術的なこととはまったく異なって、深い意味を持った出来事に他なりません。それは「奇跡」であって、「魔術」ではないのです。神は、もちろん、人間の困窮を助けられますが、神の助けは、もっと深いところでやってくるのです。
 そこで、「マルコによる福音書」の3章1節以下の奇跡物語を見てみますと、ここに「手の萎えた人」が登場しています。「手が萎えた」というのがどういう状態であったのかはわかりませんが、この人がその病の故に人々からさげすまれていたことがわかります。
 当時、そして今でもそうですが、病や困難を抱えるというのは、何かその人が悪いからであるという風に考えられていました。悲しみや辛いことを抱えなければならないのは、悪い原因があるからで、特にユダヤの社会では罪を犯したから、そのようになったと考えられていたのです。問題があるのは本人が悪いというわけです。
 ユダヤの会堂にいた「片手の萎えた人」も、そのようなさげすみの目で見られていたのです。「人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの病気をいやされるかどうか、注目していた」という2節の記述には、人々のさげすみを感じます。
 しかし、イエスは、この人に「真ん中に立ちなさい」と語りかけられます(3節)。さげすまれ、肩身の狭い思いをしなければならなかった人を中心にすえられたのです。イエスがこの人を見る目は、人々の非難の目とは対照的に、真ん中に置き、受け入れ、支える目です。
 その眼差しの中で、彼の手はいやされます。その眼差しの中で、問題が解決されるのです。かくして、非難の目をもっていた人々との間に「安息日」を巡っての問答が起こります。非難の目をもっていた人々は法的な正義を振りかざすのです。イエスは、それらの人々に「怒り」と「悲しみ」を覚えられます。なぜなら、人は、正しいことによってではなくゆるされること、拒絶されることによってではなく、受け入れられることによって、非難し批判されることによってではなく、支えられることによって、疑われることによってではなく、信じられることによって、そこで初めて生き生きと生きることができるからです。
 新約聖書の「イエスの奇跡物語」では、常に、この眼差しが記されます。長い間、病気で苦しめられた女性、自分の弱さや罪を嘆かなければならなかった人々、それらの人々に、このイエスの眼差しが注がれるのです。それは、奇異をてらった魔法とはまったく異なるのです。聖書が伝える「奇跡物語」は、この眼差しが私たちにも注がれていることを伝えるのです。
 それで、私たちはここから二つのことを学びたいと思います。ひとつは、何か問題を抱えたり、失敗したり、間違えたりして、非難や批判を浴びなければならない人に対する私たちのあり方です。ゆるし、受け入れ、支え、信じていく慈しみの眼差しです。
 もうひとつは、私たち自身が問題を抱えた時、わたしたちに注がれている神・イエス・キリストの眼差しを覚えることです。「手を伸ばしなさい」(5節)と言われて、自分の手を伸ばしていくことです。それは、大変な勇気や決断を必要とするかもしれません。しかし、絶対的に注がれている慈しみの眼差しを覚えて、私たちも自分の手を伸ばしたいと思うのです。大きな神の愛を覚えて、この週も、力強く歩んでいきましょう。

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●2006年9月

平和〜静から動へ

日本福音ルーテル千葉教会牧師 佐藤和宏

「平和を実現する人々は幸いである」 (マタイによる福音書 5章9節)

 「平和」について考えさせられた夏が終わった。
 「平和」ということにあまりにも慣れ親しんでいる私には、かけがえのない夏となった。
 平和とは「何事も無く、平穏無事な状態」――辞書はそのように教えている。それは「静」を意味する。しかしこの夏、平和とは「静」ではなく、「動」であることを私は知ることができた。

 一つはドイツ訪問のとき……。
 ドイツでは歴史ある大きな教会を訪れ、大きな時の流れの中に身を置く機会が与えられた。日本では決して感じることのできなかった大きなキリスト教信仰の歴史に身震いがした。しかし、私にとって最も印象的であったのは、古く、大きなどの教会でもなかった。それは、第二次世界大戦下の強制収容所の跡地であり、東西ドイツ分断時の検問所跡地であった。それは「平和」とはほど遠い時代の遺産である。しかし、ただ単に負の遺産ではなく、何かを作り出すための遺産であった。
 特に強制収容所跡地は、もちろん収容所の建物は残っていないものの、その敷地の半分が残されており、多くの犠牲者が埋められた場所には「ここには2000人が埋められている」と記され、そのような場所が何箇所も残されている。ドイツにとってそれは加害者としての歴史であり、負の遺産そのものである。しかし、平和を作り出すためには、自分たちが何をしたか見つめ続けることが大切であるとしているのである。まさに「動」としての平和がそこにあった。

 もう一つはヒロシマでのキャンプのとき……。
 それは子どもたちと「平和」について考えるキャンプであった。申込書にあった「平和のイメージ」を問う質問に、彼らはそれぞれの「平和」について寄せてくれた。「争いがないこと」「人のことを考えたり出来る人がたくさんいる世界」「戦争、争いをしないで、にくしみももたないこと」「自然も人間の心もきれいになること」「みんなが平等にくらせること」。一つ一つが見事に平和を言い表していると思った。寄せられた子どもたちの輝く言葉に感動した。
 しかし、それだけでは終わらなかった。申込書に寄せられた平和のイメージ、その一つ一つを葉っぱに見立て、平和の木を作った。そして、キャンプの間、自由に平和について感じたことを加えることが出来るようにした。キャンプにおいて原爆資料館を見学したり、被爆者の証を聞いたり、様々な角度から平和について考え、また感じるプログラムを経験する中で、平和の木に新しい葉が一つ、また一つと加えられていった。「愛し合えること、自分たちで作るもの、協力すること、平和について忘れないこと、いじめをなくすこと、平和について考えて気づいたことを実行する、みんな同じであること、世界のみんなが仲良くして大好きなこと、相手や神さまの気持ちを考えること、みんながケンカせず仲良くすること、みんなが思いやって生きること、みんなが笑顔でいること」などなど。
 「平和のイメージ」が静であったのに対し、キャンプを通して子どもたちが感じたのは、平和が動であるということにちがいない。なぜなら、「私」が不在であった平和のイメージの表現に対し、平和の木に寄せられた言葉には、いずれも「私」が存在していたからである。

 「平和を実現する人々は幸いである」。
 主イエスは、平和の中に身を置くことを幸いとは言われなかった。平和を実現する人々を幸いと言われる。それは、たとえ悩み、悲しみ、恐れの中にあっても、平和を実現する一人として生き始めるとき、主ご自身が平和を実現するために共に生きてくださるからである。平和を実現する一人として、歩みを新たにしたいと願う。

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●2006年10月

旧約預言の実現

日本福音ルーテル津田沼教会牧師 渡邊賢次

そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」 (マルコによる福音書 7:37)

 私たちは、マルコ福音書を通して、特に聖霊降臨後、主イエスの語られたお言葉となされた働きを主日ごとに聞いています。本日は既に聖霊降臨後第15主日となっています。先週は、主イエスが、ティロスの地方にまで出て行かれ、だれからも知られたくないと思っておられましたが、隠れていることはできず、悪霊につかれた幼い娘のために、主イエスの前にひれ伏し、どこまでも引き下がらなかった母親の信仰に打たれて、離れた地から悪霊を追い出された出来事が福音の記事でありました。
 さて、本日は、それに続く記事であります。「そしてまた、彼はティロスの地方から出て行かれ、シドンの地方に行かれた、そして、デカポリスの真ん中をガリラヤ湖へとやって来られた」というふうに、本日の記事は始まっています。ガリラヤの西の地方をティロスから30キロ以上も北上し、それから、ガリラヤ湖の東側の地方をぐるっと遠回りして、デカポリスという異邦人の多い地方の真ん中を今度は北上してガリラヤ湖にやって来たのであります。文脈から考えましても、それは異邦人が主である地であったと考えられます。
 さて、すると、人々が、彼の所に、耳が殆ど聞こえないで、しかも、言葉を出すのが非常に困難な人を連れて来て、主にその男に手を置いてやってくださるようにと嘆願するのであります。
 耳が聞こえにくい、また、ものが言い難いということは、本当に辛いものであります。さて、その人を連れて来た人々はたぶん異邦人たちであったと思いますが、主イエスの名声を聞いていて、ここでも、主イエスは知られずにいることができず、彼らは集まってきたのでありましょう。
 主は、この人を群衆から連れ出し、両耳に手を差し入れ、唾をして、それでもってその人の舌に触れたのであります。このような療法は、当時のヘレニズム世界やユダヤ人たちにもよく知られていたものであり、特に唾には特有な癒す力があるものと考えられていました。しかし、そのような当時の、また、現代の心理療法的な処置と違うのは、「主が天を仰ぎ見、神に祈りつつ、深いため息をつかれた」点であります。ため息をつくというのは、嘆き、もだえ、うめく、というような深い意味を持つ言葉であります。主イエスは、私たちすべての人間に対しても、共感し、うめき、もだえながら、今もとりなしの祈りを天からなしておられるのであります。
 それから、主は、アラム語で「エッファタ」すなわち、「あなたは開かれよ」と言われました。主はその人と人格的に深く向かい合って、治療による奇跡の働きをなされたのであり、その人は、そのとき強い信頼を主に寄せていたのであります。すると、彼の聞く器官は開かれ、その舌の縛られていたところは、ゆるめられ、その人は、普通にしゃべりだしていたのであります。彼は生まれつきの耳の聞こえない人、また、生まれつき、ものが言えない人ではなかったようであります。
 主は、彼らにこのことをだれにも言わないように命じました。しかし、主がそういうふうに命じれば命じるほど、人々はますますかえって盛んに、「告げ広めていた」のであります。異邦人であったであろう彼らが、説教をし、福音を宣べ伝えていた、という驚くべきことが起こったのであります。主が、この癒しをなさったのは、決して見世物にするためではなかったのであります。この沈黙命令は、主イエスがどういうメシアであるかを知らしめるまで、すなわち、十字架の死を遂げるまで、繰り返し主が、奇跡を起こしたときになされるものであります。
 人々は、計り知れず、圧倒されていました。そして人々はこう語ります。「見事にすべてのことをこの方はなさった。聞こえない者たちを聞こえるようになさり、しゃべれない者たちを話せるようになさるのだ」と。天地創造のとき、主なる神がすべての被造物を造られて、それを御覧になって、その目にすべてが良かったという創世記の記事(創世記1:31)に通じるところであります。
 本日のこの出来事は、イザヤ書35章の5、6節に直接つながっています。他にも似たような言葉が預言されているものがありますが、言葉とその意味においてはこのイザヤ書の記事に最も近いのです。それは、終末の日にもたらされるメシアの訪れを預言しています。それらの預言は、直接的には、バビロン捕囚からのイスラエルの民の帰還を預言したものでしょう。けれども、それは同時に、この世界の終わりのときに、どうなるかが預言されているのです。それはこう書かれています。「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が沸きいで、荒れ地に川が流れる。」
 終末の時とは、最後の審判と死と天国と地獄の四つが示されるときでありましょう。しかし、主イエスにおいて、この異邦人たちの間で、本日の癒しの奇跡の出来事において、終末がこの時既に実現しているのであります。
 そしてまた、私たちの耳も主の言葉をはっきりと聞き取り、さらにまた、私たちの口もはっきりと、主イエスにおける救いの実現を証しし、説教し、福音を宣べ伝える者となるように、今すべての人が招かれているのであります。祈りましょう。
 天の父なる神さま。
 私たちは、それぞれ、弱さを負った土の器にしか過ぎません。しかし、あなたは、主イエスを、私たちに与え、その十字架と復活を通して、あなたの栄光を現されました。異邦人であった私たちが、あなたの栄光と尊厳を告げ広めることができるようにしてくださいまして、有難うございます。私たちはしばしば、自己の弱さに負けてしまう者でありますが、主イエスのお言葉とお働きを通して、慈しみによって私たち一人一人をあなたのことを精一杯宣べ伝えるあなたの器とならせてください。キリストによって祈ります。アーメン。

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●2006年11月

主よ、憐れんでください

日本福音ルーテル市川教会牧師 中島康文

ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。 (マルコによる福音書 10:46-52)

 道端で物乞いをしていた男は、近づく群衆が、イエスという方の一行であると聞いて、大声を上げて叫び出したのです「わたしを憐れんでください」と。彼の名前はバルティマイ、目が見えないが故に、物乞いをして生きていくしか方法がなかったのです。
 その彼の耳に「イエス」という人の名前はしっかりと刻まれていました。道行く人々が、興奮しながら「イエス」という人が行ったことを話しているのを、何度も何度も聞いていたからです。律法学者たちも退くしかないほどの威厳があって、数々の奇蹟や病人の癒しを行ったというのです。死ぬまで物乞いをするしかないと諦めていた彼に、イエスという方の話は「もしかしたら、この生活から解放されるかもしれない」という思いを抱かせてくれました。何度も何度も聞くうちに「イエスという人に会えたら、目が見えるようになりこの苦しみから解放される」という確信に近いものになっていたのでしょう。だから彼は、群衆の中にイエスという方がおられると知ったとたん、必死になって叫んだのです。
 イエスは彼の声に気付き、「呼んで来なさい」と周りの人に言われます。そして、上着を脱ぎ捨て、小躍りしながら彼がやって来ると「何をしてほしいのか」と問われます。目が見えない人なのですから、聞かなくても分かりそうなものです。でも、イエスは敢えて問われたのです。直接、彼自身から聞きたかったからです、彼が求めていることを。それは彼が求めなければ、癒しは起こらないからです。彼が求めなければ、奇蹟も起こらないからなのです。
 「目が見えるようになりたい」と彼が答えると、イエスは「行きなさい、あなたの信仰があなたを救った」と言われます。「もう、道端で物乞いしなくても良い、家に帰りなさい」という意味です。目が見えない故に、物乞いをするしかなかった彼が、癒されその苦しみから解放され、新たな生き方をしなさいということでもあります。信じて求めたそのときに、彼に新しい道が示されたのです。
 バルティマイが叫んだ「憐れんでください」という言葉は、彼だけのものではありません。私たちもまた、彼と同じように憐れみを必要とする存在です。なぜなら、私たちはどんなに財産や知識をもっていても「明日の命」を誰も保障することができないからです。不安や恐れも日々絶えることなく私たちを襲ってくるからです。そういう私たちは、バルティマイと同じところにいるのですが、彼と同じように「憐れんでください」と叫ぶことを許されています。そして、「憐れんでください」と叫ぶ私たちの声を、主は必ず聞いてくださり、それぞれに相応しい道を与えてくださることを、聖書は約束してくれているのです。
 キリスト教会は彼の叫びを「キリエ」として礼拝の中で、ずっと守り続けてきました。
 「主よ、憐れんでください。キリストよ、憐れんでください。主よ、憐れんでください」と叫ぶところに、神の恵みの手が差し伸べられるのです。神様の平安が与えられますように。

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●2006年12月

てっぺんに輝く星は

日本福音ルーテル稔台教会牧師 栗原 茂

「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」 (ヨハネ1:5)

 11月11日お台場海浜公園に高さ約20メートルの「メモリアル・ツリー」が設置され点灯式がありました。日没から翌日の午前零時半まで12万個の電球が点滅しています。17日には札幌市大通公園に"冬の風物詩"「さっぽろホワイト・イルミネーション」が点灯されました。 こちらはクリスマス・ツリーだけでなく、さまざまなオブジェが16体並び、最大37万個の電球が点滅しています。そしてクリスマスの丁度、一ヶ月前の24日には成田空港の第一ターミナルの南ウイングと第二ターミナルの出発ロビーで高さ6メートルの「クリスマス・ツリー」に明かりが点されました。式典は「ライテイング・セレモニー」と呼ばれ、デイズニー・ランドのキャラクターである「ミッキー・マウス」と「ミニー・マウス」が参加していました。いずれの会場でも沢山のカップルや観光客、旅行客が、ツリーを見上げて歓声をあげたのでした。
 ところで、ツリーのてっぺんには何がついているでしょうか。星です。必ず星が輝いているはずです。そしてその星こそが、2千年前、イエス・キリストがお生まれになられた夜ベツレヘムで光っていた星を象徴しているのです。
 「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」 (ヨハネ1:5)
 これは聖書の言葉です。このホームページをご覧になっているあなたが本当にイエスの誕生を喜び、クリスマスとして心から祝って下さるのなら、どうかこの世の"闇の部分"に、あなたを通して"光"が届くような迎え方をしてほしいなあと思っています。
 手始めにどうするかって、そりゃあ、ともかく手近な教会を訪ねて、教会のクリスマスを"体験する"ことをおすすめします。どこへ行っても歓迎されますよ!
 ちなみに千葉県松戸市稔台にある稔台教会では12月2日(土)に教会の庭にある大きな杉の木をクリスマス・ツリーとして恒例の点灯式(午後5:00)を予定しています。23日(土)は午後7時から「音楽クリスマス」、翌24(日)午前10時半から「クリスマス礼拝と祝会」、午後は7時半と10時に二回「クリスマス・イブ礼拝」をします。
 JR上野駅から常盤線で21分、松戸駅で新京成線に乗り換え三つ目の駅「稔台駅」です。駅改札口を出て、すぐ踏切を渡って交差点の角が教会です。[徒歩一分]
 教会の受付で「ホームページを見た」とおっしゃって下さい。メリー・クリスマス!"挨拶"を交わせる出会いを期待しています。

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●2007年1月

神のまなざし

日本福音ルーテル東京池袋教会牧師 立山忠浩

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタイ1:23)

冬に咲く花
 春と夏に咲く花があれば、花を咲かすための準備をその季節にする花もある。教会の庭の山茶花(さざんか)がそれである。秋につぼみを大きくしていった山茶花が、寒い冬に咲いている。春や夏の間はただじっとして、蜂や蝶たちに蜜を与え人目を楽しませる役割を、他の草花に譲っていたかのようだ。他の草花が咲き終わるときを見計らい、いま自分の出番を待ちわびていたかのように見える。

山茶花の詩
 山茶花は日陰にも適する花であるせいか、その花の華やかさとは対照的に、人目を忍んで咲く印象がある。数々の誌画集で知られる星野富弘さんが、山茶花の誌を作っている。

ふと 誰かが見ているような気がして
くるま椅子をまわすと
そこに 小さな花が咲いていた

神のまなざしが
 星野さんは山茶花の花に、神のまなざしを重ね合わせたのであろう。冬には、ほとんどの木や花は眠りにつく。それゆえに、自分を見つめる花の存在を私たちはしばしば忘れてしまう。まして神様のまなざしはなお更ではなかろうか。
 人目を忍んで咲く山茶花は、神のまなざしを道行く私たちに知らせるために、静かに私たちを見つめているのかも知れない。 クリスマスに語られた聖書のメッセージはこのことを告げている。神の子イエスの名の意味はインマヌエル、すなわち「神は我々と共におられる」。どんな人にも神様は太陽の光のように、ご自身のまなざしを注いで下さっている。何と有難いことか。
 新しい年が始まった。神様の暖かいまなざしが、私にも注がれていることを覚える日々を送りたいと思う。この事実を忘れない限り、私たちには平安がある。

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●2007年2月

『異言』を語るもの

日本福音ルーテル小岩教会牧師 松田繁雄

「しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。」(コリントの信徒への手紙一 14章19節)

 『異言』(いげんと読みます)とは、どのようなものだったのか、と、ふと考える事があります。パウロは、音階のない楽器演奏のようなものだ(7節)と喩え、明確な言葉でない、何を話しているか分からない、空に向かって語るようなものだと説明しています。
 それでも、祈りの場合、異言で祈る=霊で祈る、とし、理性で祈る事と並べていますから、認めているところもあるのです。集まりの時などに声に出して祈る事が苦痛に感じられた事はありませんか?イエス・キリストも、『祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい』(マタイ6:6)と言われていますから、祈る時だけは、他人に分からない言葉で祈っても良いような気がします。時には、異言が使えれば良いな、と思うわけです。

 さて、この手紙が書かれた紀元1世紀の状況を少し見ておきたいと思います。コリント市の属する地中海世界は、ローマ帝国の支配下にあり、多少の問題はあっても、空前の平和な時代を享受していました。平和な時代、人々は案外冒険を求めます。宗教でも、怪しげなものやカルト的な宗教が、容認されるという風潮がありました。キリスト教も、もともと、ギリシャローマの宗教ではありませんでしたし、この時代では新興の宗教の一つでしたから、この新物好き、珍し物好きな時代精神に後押しされて、地中海世界に広がっていったということでもあるのですが、一方、ここで、パウロが嘆くように、『異言を語る』というような、変わったパフォーマンスを伴う、キリスト教としては、異端的なグループがこの時代この都市の辺りでは歓迎されていたのでした。

 異端的という言葉を使いましたが、この時代、まだキリスト教の第一世代の時代で、何が正統、何が異端というような区別はなかったと思われます。実際、異邦人の使徒を自称していたパウロに対する評価も、人により所属するグループにより、微妙に違っていた時代です。現在われわれが考えているよりも、もっと広い範囲の、様々な傾向を持った信仰集団が、キリスト教の名のもとに宣教活動をしていたのです。現代の私たちが確認できる集団だけでも、例えば、エルサレム教会を中心としたグループ、バルナバを中心としたグループ、パウロを中心としたグループ、アポロらの異邦人信徒グループ、マルコが属していたガリラヤの信徒グループ、マタイが属していたシリヤの教会グループ、ローマ教会、コプト教会などを挙げることができ、これらの信者たちは、微妙に異なるキリスト教信仰と教会生活を守っていたのです。

 『異言』を語るグループ、癒しや悪霊ばらいをするグループなども、以上とはまた別の信仰グループとして、この時代活発に活動していたのでしょう。いや、むしろ、彼らの活躍が、キリスト教をギリシャローマ世界に浸透させる大きな役割であった事も想像できます。しかし、パウロの語るように、最終的には、分かる言葉、理性に訴えかける言葉が語られなければ、その宗教は定着していきません。時代の流れの中で、次第に、パウロとその説く福音がキリスト教信仰の中心になって行ったのです。

 多分、今の時代でも、型にはまらない、さまざまな信仰のあり方があって良いのでしょう。そのヴァラエティーが、宣教の活力となるということもあります。いまの時代のわたしたちのキリスト教に少し欠けている要素ではないかと思います。そして、その多様な信仰が、時代の流れの中で、人々の信じる心の中で濾過され、醸成されて、次の時代の正統信仰を形作るのだろうと思うのです。

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●2007年3月

宇宙飛行士のことば

日本福音ルーテル聖パウロ教会牧師 松木 傑


地球

「美しく、暖かく、そして生きている。それは非常に脆くてこわれやすく、指を触れたら粉々に砕け散ってしまいそうだった。これを見れば、人はだれでも考え方が変わるはずだ。神の天地創造と神の愛に、心から感謝せずにはいられなくなる。」


14:実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、15:規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
18:それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。 (エフェソの信徒への手紙 2章)

 聖パウロ教会では、2007年1月の聖書の学びで、エフェソの信徒への手紙を読んでいます。私は2章の上記の御言葉に大変重要な宗教的体験が隠されているのではないか考えています。
 当時の教会の課題は、ユダヤ人キリスト者とギリシャ・ローマを背景とする異邦人キリスト者との対立でした。平和と和解の課題はここにありました。律法を中心として生きるユダヤ人キリスト者にとって律法の完成こそキリスト者が目指す目標だと考えていたでしょうから、当然、その善きものを新しく加わった異邦人キリスト者も受け入れるべきだと主張したことでしょう。しかし、キリストの十字架は、「規則と戒律ずくめの律法を破棄」し、「敵意を滅ぼした」といいます。人が複数集まり、あることをめぐって意見を述べ合えば、必ず複数の意見が生まれ対立が生じます。そこで共通ルールを人は生み出します。律法は、神と人とのルールともいえます。しかしそのルールは別のルールとの対立を生み出します。キリストはルールを破棄したというのです。ルールそのものを破棄しないと平和と和解は成り立ちません。ルールそのものを破棄させるものとは何でしょうか?
 ルールとは人間が生み出すものですから、人間の世界を超えたものによってしか破棄できません。エフェソでは、それを「一つの霊」によってといっています。言葉と論理で超えられない対立を、宗教的、霊的な働きによって実現したのです。
 現代社会のルールの典型が、国家であり国境です。宇宙飛行士の素直な言葉は、ルールを越える意識につながっています。キリストの霊と宇宙的意識が、世界の問題解決のための要ではないでしょうか。

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●2007年4月

復活させられたわたしたち

日本福音ルーテル小石川教会牧師 徳野昌博

「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。」
(コロサイ3・1)

 わたしたちは「キリストと共に復活させられた」のです。自ら、一人で、「復活した」のではありません。
 ことあるごとに、心機一転を決意しては、再生、復活を目指して、がんばってきたし、がんばっているわたしたちです。けれども、熱き思いとは裏腹に、肉体はともかく、意志薄弱ゆえに、いつも元の木阿弥です。そのたびに、挫折感と自己嫌悪に陥ります。もちろん、ひょんなことで、再び、心機一転し、がんばるわけです。凝りもせず。
 自らの力で復活するのではありません。わたしの一大決心、決意が、あるいは、あせりや苛立ちが、わたしを再生、復活へと導くのではありません。
 わたしたちは復活するのではなく、キリストと共に復活させられるのです。
 誰によって? 何によって? 
 それは主なる神様の憐れみ、恵みによってです。
 キリストと共に復活させられたわたしたちは、がんばる(我を張る)自分にはすでに死んでいるのです。古い自分とは訣別しているのです。神様のものであるのに、神様のものとして生きてこなかった、古い自分、罪人なるわたしは、キリストの十字架の出来事によって、キリストと共に死んだのです。そして、キリストと共に復活させられました。
 ですから、「上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右の座に着いておられます」とあります。上にあるもの、キリストを求めて生きるのです。
 「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい」と言うのです。「捨て去れ」との、厳しい命令です。上にあるものを求める復活信仰は、即、禁欲主義なのでしょうか。
 聖書が「捨て去れ」と言うのは、単なる禁欲主義の勧めではないでしょう。つまり、これをするな、あれもいけないと、小心翼翼として、自分を小さく、萎縮させて生きることではないということです。信仰に入ると、いろいろな戒律を守って、「小さき聖人」として生きなければいけないと思いこんでいる人が少なからずいるようです。実際、洗礼準備の学びをしていると、「クリスチャンになって、守らねばならない戒律は何ですか」と言った質問を受けることがあります。その時、わたしは、「神様を礼拝することです。守るべき戒律があるとするなら、それはクリスチャンであろうが、なかろうが、守らねばならないことではないでしょうか」と答えています。
 人間には欲望があります。欲望あっての人間といってもいいでしょう。ただ、それを使いすぎるところの「貪欲」も、使わなさ過ぎる「禁欲」も、罪に陥るということです。神様の戒めに従うとは、この行き過ぎの両極端のいずれでもなく、真ん中を歩むということかも知れません。そこに真実があるということです。そう言えば、ヘブライ語で「真実」を"エメト"と言いますが、それは、アレフ、メム、タウの三文字です。その文字、アレフはヘブライ語のアルファベット22文字の最初の文字、そして、メムは13番目、すなわち真ん中の文字、そして、タウは最後22番目の文字でできている言葉です。「初めと終わりをおさえての、その真ん中。それがエメト、真実なり」と言いたげです。
 復活させられた者は、両極端のいずれでもなく、真ん中を、真実を歩むことができます。「復活させられた」のです。生かされて、生きるのです。 生かされて生きる。そこにこそ、自由があります。
 「死にて葬られ、陰府に下り、天に上り、神の右に座し給う」主キリストと共に、復活させられたわたしたちは、このお方と共に生かされて生きていきます。その時、禁欲と貪欲の両極端のいずれでもなく、真ん中の真実を、そして、自由を生きるのです。

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●2007年5月

腰をあげて

日本福音ルーテル本郷教会牧師 安井宣生

「主を呼ぶ人すべてに近くいまし まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし」 (詩編145編18節)

 友人の結婚パーティーに招かれました。
 このところ牧師として挙式の司式の役割を頂くことが多い(これはこれでとてもありがたいこと!)ので、そうではなく列席者のひとりとしてお祝いする以外に役割のない機会、この時とばかりにごちそうをたらふく食べてやろうと意気込んでいました。ところが前日になって、急遽パーティーの司会を拝命し、当日は遠慮がちに頂くことでガマンすることに。しかしながら、司会の準備のためにお二人のことを詳しく伺う機会が与えられました。

 アメリカと日本という大きく異なる背景を持っている二人が、人生を共に歩む結婚のスタートに際して心に留めたことに「Unity-ひとつ-」ということがありました。結婚ですから、二人の人がひとつになることはとても自然なことですし、 そうありたいから結婚します。聖書にも「二人は一体となる」ことが結婚の意味と語られています。

 その中であえて、彼らは「ひとつ」にということにこだわりました。挙式は二人それぞれのふるさとの中間点であるハワイで行われ、それぞれの家庭で育まれた信仰の灯火を持ち寄ることを現して、ふたつの灯火を持ち運び、ひとつの大きなろうそくに火を灯したということを聞きました。

 ひとつになって歩んで行くためには、どちらか一方が迎えたり、どちらか一方が飛び込んで行くというのではなく、それぞれがそれまでの自分のいたところから、互いに対して歩み寄って行くということが必要なのだと気づかされました。 そうして新しい二人の家庭を築いていく。

 考えてみれば、他者の存在なしに生き得ない私たちの、幸せな出発も、問題の解決も、平和への道筋も、腰を上げてお互いの間に向かって歩み寄って行くところから始まるのです。あいつが謝ってきたらゆるしてやる、とか相手の気持ちも考えずにオレはこんなに愛しているのに、ではいつまでたっても共に歩むことはできません。

 今月与えられる聖霊降臨(ペンテコステ-教会暦で今年は5月27日)も、十字架と復活も、そしてクリスマスも、神が歩み寄ってきた出来事です。人がそれに気づいていようが気づいていまいが関係ありません。
 ただ、心から呼ぶならば、すでにすぐ近くまで歩み寄ってきておられる神に出会うのです。

 神も望んでおられるのです。ひとつになることを。