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東教区 第11回宣教フォーラム(グループによる話合い)
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グループによる話合い
Aグループ
司会:青木 千恵
書記:大山 周治,光延 博
出席者数:20名
話し合いのテーマ:「自分が何を神さまからミッション(使命)として受けていると感じたか、感じているか。これまでにどういうことに取り組んできたか。」ということで、皆さんから発表していただきました。
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自分は、しゃべる事が苦手、仕える信徒として奉仕したい。 |
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一生懸命話を聞くこと。 |
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信仰に生き成長する。牧師、信徒の導きにより生かされたい。 |
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我々は、信徒として生かされている。信仰の根幹は聞くことにある。 |
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家庭や自分の病に悩んでいるとき、わたしは生かされていることを、神さまへの祈りによって導かれる。 |
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本当の伝道は何か?宣教フォーラムのその後、その後の事が大事。 |
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話すことの熱心さの余りに知識の押し付けになりがち、聞き上手になることは大切だと思う。 |
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子供たちにイエス様のことを話し、子供たちと共に成長したい。 |
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教会員一人一人が役割を持つ、積極的に取り組み疲れを感じない。 |
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あいさつ、地域の人への声かけ。いつもニコニコ喜んで、神さまにつながっていたい。 |
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牧師の立場からは、伝えたいという思いから語りたい。しかし、聞いてほしい人が多い。わたし達は、聞く側に回らなければならない。 |
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教会に来た人たちは何故、教会に冷たさを感じるのか。みんな肩を張りすぎているのではないか。わたし達は、ありのままの罪人でよい。御言葉によって慰められ、生かされ、押し出される。 |
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生活の中で御言葉に生かされているだろうか、聞くということをしているか。私達はキリストの手紙なのだ。こんな私でも…。 |
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何を目的として生きるということが重要ではないか。教会の特徴をどのように生かすか。わたし達の教会は「平和をつくり出す教会になる」というテーマを決め、世の中すべての人に向けて、生き生きとした活動を目指したい。教会全体で取り組んでいる姿を示して行きたい。 |
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信徒として生かされる。「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」申命記6章5節 |
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「聞くこと」について |
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御言葉を聞く、聞いて祈る。そして話す(神の御心を民に取り次ぐ)。 |
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心が病んでいる方が多い。 |
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わたし達は悩みをかかえている。まず聞くことが大切である。 |
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教会で隣に座った方の微笑みも、微笑み受けた人にとっては聞いて頂くことに、つながるのではないか。 |
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自分が頂いた恵み、うれしい気持ち、他の人にも伝えたい。 |
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聖書に聞く、目で聞く、心で聞く。 |
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社会の雑音が飛び交うなかで聞き分ける。 |
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時として無になる、相手を理解しようと努める。相手の立場に立つ。 |
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聞きたいという姿勢、聞きたいと単純に思うことが大切。 |
[感想]
今回の宣教フォーラムに参加することが出来て感謝です。わたし達は、生かされています。わたし達は毎日の生活の中で、そのことを忘れ、色々なことにつまずき、ぶっかって、思い悩み、苦しんでいます。わたし達のグループでは、聞くことの大切さが再認識されました。苦しんでいる兄弟の悩みを、兄弟の立場に立っての聞き、祈る。神さまの御言葉に生かされるように祈ります。
Bグループ
司会:渡辺 伸宏
書記:木下 理
出席者数:22名
グループで話した内容をできるだけ本人の言葉に近く報告します。午前中の江藤先生の講演で、判然としない所、および疑問の箇所を出してくださいという司会者の投げかけから話し合いが始まりました。万人祭司の部分が、よく理解できなかった、もっと具体的に話してほしい。という意見から中身にはいっていきました。与えられた時間の殆どすべてが、万人祭司と信徒説教者に関する意見が大部分でした。以下、意見を紹介して私の報告とします。
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(反対の意見) |
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ある教会員は、信徒が説教するのであれば、ルーテル教会を辞める。 |
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説教するのであれば、牧師が説教を事前にチェックしなければ成らない。又代読という方法もある。 |
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礼拝の説教は、按手をうけた先生によっておこなわれるべきであって一般信徒が、どんなに勉強しても牧師の説教と証しが必要であり、信徒説教者の制度は、あくまで牧師不足に対する緊急避難的な措置ではないのか。 |
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(賛成の意見) |
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牧師が、急病のとき証しをおこなった。皆、よかったという反応でした。 |
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もう、すでに5〜6名の人が、信徒説教者として実際に先生不在のときに説教をおこなっている。 |
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PM21の制度として、信徒説教者の制度について、委員会を設けすで
に立ち上げている。 |
以上が、主な話し合いの中身です。この他にも各人発言がありました。
全ての発言を掲載したいと思ったのですが、とりあえずまとめさせてもらいました。本報告は、グループの皆さんから承認をうけたものであり、この他にも傾聴すべき意見が、多々あったように思います。私は、午前中に神学校の授業があり、グループの話し合いにやっと間にあいました。午前中の江藤先生の講演を聴いておれば、もう少しこの議論に加わることができたのではないかと思っています。本日の会議を通して、さすが各教会を代表してこられる方々だけに、揺るぎない信仰を持っておられる方々ばかりだという気持ちを持ちました。私は、神学生として学びだしたばかりで、東教区の事情も詳しくありません。どうか、今後学びを共にする機会が、多く与えられることと思います。その中にあっていつも神様が中心におられ、会を導いておられる事を信じて、教会成長のため、我々の信仰の成長のために、神様のご計画は何であるか、祈り求めていきたいと思います。ルーテル教会は一つです、更なる飛躍へと自分が教会のため何ができるのかをいつも考える神学生でありたいと思っています。
Cグループ
司会:須貝 鶴雄
書記:松尾 啓子
出席者数:19名
司会者須貝さんより簡単な自己紹介をお願いしますとの事から始まりました。
| 1.LAOSの本を読まれましたかという司会者からの質問がありました。 |
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まだ具体的にやってないが、勉強会をするようにしていく方向で考えている。 |
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信徒教育は牧師先生がしてくださると思っていました。テキストを個人に任せていないで牧師先生にやっていただくようにお願いしました。 |
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月に2回役員の人が本を読んでいる。10分か15分ぐらい。 |
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これから勉強することになっている。 |
| 2.LAOSの本の中に書いてある大胆に証しすることはどういう事か。 |
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職場や社会で、自分がクリスチャンであることを明らかにすることである。 |
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家族の中でもこういう信仰を持っている事を明らかにする。
自然体で語ることが大切である。(葬式の中で初めてクリスチャンであることがわかる) |
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LAOSの本の中の信仰の継承は、親族の中に勧めることは出来るが、横に(社会)に広げることは難しい。 |
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祭りがある時、行事がある時に語ることは大切である。 |
| 3.日本では仏教が日常生活の中にあるので、どういうふうにキリスト教を説明していくことができるか。 |
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牧師として島田市に10年間聖書を使って奉仕した。 |
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先祖の墓は草茫々にして、教会で一生懸命に働くのはよくないのではないか。 |
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近代化されたやり方はよくない。カトリックは容認的である、日本的なキリスト教があっていいのではないか。 |
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クリスマスは入ってきているが、七夕もよいのではないか。(神様はそんなけちなことは言わないのでいいのではないか) |
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メールなど仲間作りから始める。キャンプなどに行くように勧める。 |
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洗礼前の教育をする。 |
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信徒修養会ができるようにしたい。10月に江藤先生にLAOSの本の5番「では、具体的にどう生きるか」のことで説明を頂く。 11月に信徒礼拝をするように計画している。そして、証しをするように奉仕の表がある。 |
以上が話し合いの内容です。
信徒の皆さんがお忙しい中、こうして1日かけて宣教フォーラムに参加して下さり心から感謝いたします。各教会でLAOSの本を使って前向きに宣教の事を考えて下さっていること、社会において又教会において、クリスチャンとしていろいろな奉仕に携わってらっしゃることがわかりました。今の日本は経済的にも落ち込み、平和な社会を保つことが難しくなっています。いつも自己中心的で他人の事を思いやることを忘れている人が多くなっています。又、神様はいない、自分の力で成功してやるという人も多くなっています。その中で、イエスは言われた。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22:37〜39)目の前の現実に信徒の皆さんがつぶされないように、キリストの体として、御言葉に立って、希望を持って、信仰してくださることを心からお祈りいたします。
Dグループ
司会:清野 博之
書記:池谷 考史
出席人数:15名
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万人祭司というが、実際には牧師と信徒の間は一線で画される。そのため、信徒が教会の奉仕をするときに妨げられることもある。 |
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この線はあってしかるべきである。万人祭司は、この線を無い物とするものではない。 |
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ただ、どこで引くのかが大きな問題として存在する。 |
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⇒表面的な「浅いレベル」ではなく、「深いレベル」での判断基準が必要(これに関連して、ルーテルでは信徒による緊急洗礼は認められている)。 |
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「祭司」という言葉自体がもつ意味・ニュアンスが、派手な服装をした、いわゆる聖職者というイメージを連想させる。そもそも、万人祭司とはどういう意味を持つのか? |
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⇒他の人へのとりなしの祈りをする役割という意味。
一人一人が他者をキリストに導く、キリストを証する存在であるという意味で用いているのでは? LAOS講座テキストP.12を参照。
そのために、PM21が存在する。そして、今回のフォーラムはそのような自己への改革のために開かれている。 |
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何でも牧師任せではなく、信徒ができることは信徒自らがやるべき(信徒中心)。 |
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ある教会で信徒にできることは任せる、という方法を取ったところ、実際に教勢が伸びた。 |
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行動(をもって周りに証する)という意味での「説教」をすることが信徒にも必要。日曜に説教を聞いてそれで終わらないこと。 |
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喜びを持って奉仕することが大切。そうでないと普段の仕事と変わらず重荷になってしまう。 |
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恵みによって自分が生かされているからこそ、他者を生かせる(仕えられる)。 |
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牧師は独身であるべき。それは、最終的にいざ自分(の命)を捨てるためには必要な条件。 |
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これに対する反対。むしろ、逆である。普段の生活の中でさまざまな苦労を味わいながら生活することで、人の気持ちが理解できるようになる。その意味では、カトリックのように結婚禁止の方が楽である。 |
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牧師は信徒によって祈られていることを敏感に感じるもので、それが大きな力となる。 |
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兼牧は大きな問題である。 |
[感想]
本当にさまざまな意見が出されたこと、そしてそれぞれが自分の信仰や教会のあり方などについて意見やヴィジョンをはっきりと持っていることが印象的であった。一つの問題について大勢で話し合うことで(特に教会という枠を越えて)、広がりと深まりが出たのは良かったし、交流という意味でも有意義であったと思う。このような機会の大切さを改めて感じた。次は、ここで出たことを今後実際の現場でどう生かすか、である。
たちが信仰生活を送るうえで、そして教会を形成していくうえでもっとも大切なことは、喜びを持って奉仕すること、そしてそれは神の恵みによって自分が生かされているという思いがあるからこそである、という意見に集約されると感じた。これには牧師と信徒の間の区別はない。もう一度このことを思い起こしたい。今、教会には様々な問題(特に受洗者・信徒数の減少)が生じているが、案外、その問題解決のポイントはここにあるのではないだろうか。
Eグループ
司会:西村 友則
書記:佐々木 赫子
出席者数:17名
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牧師と信徒の信頼に於ける働きのある教会。 |
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役員会が牧師と共有する課題を心合せて進んでいく様にしていきたい。 |
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信徒の説教について働きとしてやっていった方が良い。 |
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神学生が今年は増えたが卒業後の受け入れは大丈夫なのだろうかという疑問がある。 |
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信徒はもう一度基本を大切にLAOS講座を教会単位で又地区単位で勉強してはどうか。学びを強めて欲しい。 |
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教会が教会員の一人一人の信徒を世代が代わったとしても神に召される時迄しっかりクリスチャンとしての最後の時を迎えさせる責任の働きをしたい。 |
Fグループ
司会:唐沢 忠
書記:西川 晶子
出席者数:21名
1.まず、自己紹介と、午前中の講演・今回のLAOS講座に対する感想などを一人ずつ語っていきました。
参加された方はそれぞれに異なる背景をもっておられ、他教派から転籍してきた、という方も多くおられました。また、ご自分にできる形で教会や社会に奉仕しておられる方、今までの神様と自分との一対一の関係から一歩を踏み出すために勉強したいという方など、それぞれに「神さまに喜ばれる生き方がしたい」という意識を持って、このフォーラムに臨んでおられたと思います。また、それぞれが所属している教会の現状も、信徒奉仕者の働きが豊かな教会、無牧状態を信徒の働きで支えてきたという教会、など、さまざまでした。
午前中の江藤牧師の講演およびLAOS講座に関しては、「宣教する教会に『なろう』ではなく、すでに宣教する教会『である』というぐらいの気持ちを持つべき」「もらったけれど記憶にないという人が多い」「PM21は教条主義的になる危険性もある、各自の賜物を生かして明るい顔で奉仕していれば人はついてくるのでは」というような意見がありました。
また、「キリストのからだ」として生きていくことは、頭ではわかっているが現実では難しい、その原動力となるのは恵みであり、まずみことばを聴くところからはじまるのではないか、といった意見も、多く出ていました。
2.1で出た話を受けて、「自分たちはどのような信徒であるべきか」「新として生きていく上での悩み」などを出し合い、話し合いました。
その中で、ルーテルの現状では牧師が変わるたびに信徒が入れ替わるという教会も少なくない、信徒がいなければ始まらないのだから、信徒が強くならなければ、という意見が出ました。また現状としては牧師のいない教会も増えてきているが、これまでが牧師中心であったため、牧師以外にリーダーシップをとることのできる人が少ない状態である。しかし他教派では無牧の教会が地域と結びついて伝道をしていった、という例もあり、牧師がいないという状況を信徒が神さまに使っていただくためのチャンスとして捉えることもできる、という前向きな意見もありました。
また、今回のLAOS講座、またPM21について、今までの教会は牧師中心で信徒が眠っている状態であった、教会の体質を変えて一人一人の賜物を活かすことのできる教会を作っていかなければ、という話がありました。しかしそのためには、まず信徒の一人一人が聖霊を豊かに受ける必要があり、ルーテルではそのみことばを信仰的・霊的に受け取る、という部分が他教派と比べて欠けているのではないだろうか、という意見もありました。そのようにみことばから恵みを受け取っていく中で、自然と信徒が奉仕へと押し出されていき、信徒同士が響きあっていく…そのような教会が理想である、という意見が出ました。
今回話し合いに参加させていただいて、今回参加されたお一人お一人が、ご自分にできる形で教会で奉仕しておられること、または奉仕したいと思っておられることが、印象的でした。また、そのような中でみなさんが「みことばに励まされること」を求めておられる、みことばによって喜んで押し出されていきたい、とのぞんでおられることを聴くことができたと思います。やはり礼拝でみことばを聴くことが、すべての基本になるべきなのだ、と感じました。また、話し合いの中で、牧師のありかたについての厳しい意見なども聞かせていただきましたが、これから牧師になっていくものとしてそういったご意見を謙虚に受けとめて、これからも学んで生きたいと思います。ありがとうございました。
Gグループ
司会:伊藤 禮子
書記:神崎 伸
出席人数:21名
わたしたちのグループでは、IIコリント5:15の聖句「キリストによる神の和解」を中心に、これを人々にどう伝え、奉仕していくのか、つまり「教会の奉仕とは何か?本当の奉仕とは何だろうか?」というところに皆さんの関心は集まりました。また「信仰は聴くことから始まる」(D・ボンヘッファー)という言葉も深く印象に残ったので、これも踏まえて「宣教・奉仕」ということを総括的に考えていこうということになりました。
伊藤禮子の名司会、ユーモアに溢れ、時には笑いも飛び出しながらの歓談に、楽しいひとときを過ごしました。そして話は自然にそれぞれが「洗礼を受けたときのこと」へと進んで行ったのです。「受洗前と受洗後では奉仕理解に何か違いがあるか?」という視点によって。以下に、皆さんの発言の大要を記します。
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洗礼を受けてからどう変わったか?何かが変わった、いや、"変えられた"とは思う。しかし受洗前、受洗後で自分の生活がどう変わったかということに関しては、あまり実感がないのが正直なところ…。 |
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牧師としては受洗準備会の際、"洗礼において一度死に、また新たに生まれる"ということを一番強調して伝える。受洗の結果、礼拝に着実に出席するようになるとか、聖餐にあずかるということは目に見える変化と言えるのではないかと思う。 |
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洗礼は神様からの贈り物だと信じている。だから自分が変わるとか、変わらないとかにかかわらず特別だ。 |
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わたしは洗礼を受けてガラッと変わった。洗礼後の変化は、一瞬で起こるか、たとえば30年後に起こるかの違いであって、みな必ず変えられているのだと思う。 |
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洗礼は結婚の条件だったから、初めは大して何も考えずに受けた。しかし実際通い始めると教会とは大変なところで、いろいろ勉強しなければならない、さあ大変!ということがわかってきた。以来、教会の中でいろいろな役割をいただくことで学びなおし、成長させられていった。皆で一緒にお役を担っていくことが大切だと思う。 |
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洗礼から恵みと喜びを受け、自分が救われていることを知ったら、それを伝えたいと、いても立ってもいられなくなる。それが信徒として生かされていることの意味ではないだろうか。"人格(古き肉)"は変わらないけれども、その責任は主イエスが負ってくださる。わたしたちに必要なことは、少しずつでもその恵みにお応えしていこうとすることではないか。それが「宣教・奉仕」つながってゆくのだと思う。 |
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わたしたちが奉仕できているか?と問うとき、拠って立つべきはやはり「御言葉」であり、キリストのからだである教会でなされる"礼拝"ではないだろうか。 |
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キリスト者として何十年と歩んできたが、社会、とりわけ職場では自分だけが教会に行っているということの難しさ、立場のを感じてきた。それでもやってこられたのは、毎日曜日の礼拝があったからであり、そこで聖書から新たな力をいただいて、また散らされてゆく。だから宣教の担い手はわたしたちひとり一人なのではないでしょうか。 |
◇以上、わたしは皆さんの非常に率直なお気持ち、そしてこれまでの信仰の歩みに、強く胸を打たれました。礼拝(Gottesdienst)は「神の奉仕」と言われます。礼拝――ここではまさに、神様が、主イエスキリストを通してわたしたちに奉仕してくださるのですから、わたしたちもまた共にこの恵みに与り、切磋琢磨しあう者へと変えられてゆくと信じています。わたしたちひとり一人はキリストを頭とする、その部分なのですから、ご一緒に宣教のみわざに仕えてゆきたいと願います。
Hグループ
司会:根本 恭子
書記:小勝 奈保子
出席者数:15名
●LAOS講座のテキストブック
「信徒として生きる」(発行日2004年3月20日)は教会でどのように用いられていますか?という問いがあった。それに対し、三鷹教会と蒲田教会では学習会が数回行われたが、ほとんどの教会では牧師から渡されて読むようにと言われた程度であるという答えであった。
●教保制度の活用を
教保は洗礼を受けて新しい信仰生活をはじめた会員のサポーターである。けれども、教会におけるその役割は今のところまちまちであった。教保を付ける対象者も、子供である場合と大人である場合とそれぞれであった。また教保の選択は、牧師が決める、本人の希望、それらを含めた相談とはっきりとしたガイドラインはない。したがって、牧師が変わると、教保を立てたり、立てなかったりということが起こっている。また、教保に対する教育もほとんどなされていないのが実情のようである。
意見には、教保として頼まれたが、洗礼のときに付き添っていただけで終わっている。それだけでは意味がない。もっと、信仰生活を共にする兄弟姉妹として、人生の困難なときに、父親、母親の役割としても、積極的に関わりたい。例えば教会の中で、孤立した問題が生じたときでも、相談する相手もなく、一人教会を去っていくということが、防げるのではないだろうか。フィンランドでは父親、母親として、生涯にわたり信仰生活上の相談を受け、その人を守るサポーターとしての機能を有している。教保教育をしっかりと確立させることによって、信徒として、あるいは家族としての層の厚みが出てくると考えられる、とあった。
●信徒教育について
東京教会では、初陪餐教育(小学校入学時)、堅信教育(高校生)、洗礼後教育(受洗後3年)の教育システムがある。その他にもいくつかの教会の取り組みの紹介があった。しかし、私たちの教会では、こういう取り組みをやっていますとなかなか具体的に表現できない教会もあった。そこから言えることは、各種集会が信徒教育制度として整えられていない状況があるということであろう。実際、教会の課題や問題の状況は示せても、そこへの対応まで力が及ばない、そのような悩みを抱えている教会は多いように思われた。
●もっと楽に、教会生活を考えよう
「何かやることで信仰を証ししていると錯覚を起こすことがあるが、説教を聞いて恵まれるだけで、十分だ」、「信仰の原点に立ち返る。マンネリ化しない」、「自分が喜んで生きる姿で証をしていくことで、精一杯」という意見も上がった。これらは教会の宣教が、ややもすると行為主義に陥ってしまうことに対する警鐘であろう。
●教会と社会とのつながり
信徒として家庭や社会でどう生きるか?という問いが上がった。これは自己完結しがちな個の信仰、あるいはサンデークリスチャンからの脱皮を願う意見である。これに対し信仰者として証する生き方について意見が上げられた。またつながりという点では、教会と家庭との生活を結ぶプログラムが何か必要である、各個教会の地域性やニーズがありその特徴を生かしたもので、といった意見が上がった。さらに、信仰者の連帯性は、これからの課題とすべき重要なテーマである。これは教保制度や信徒教育の目的とする効果の一側面でもある。例えば信徒教育においても、ただ個人の信仰教育といった見方ではなく、聖徒の交わりを通し連帯性を養うことによって、教会の信仰を強める働きがある。
●礼拝を大切にする
礼拝の中で、御言葉によって私たちは養われる。そして、御言葉によって、心が満たされ、押し出されていくのである。
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