「更に神は言われた。『あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。』神はノアに言われた。『これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。』」 (創世記9:12-17)
| はじめに: |
| ・ |
虹色に輝く教会の「牧者キリスト」のステンドグラスとノアの箱船をかたどった礼拝堂。 |
| ・ |
向こう側からの光に照らされてステンドグラスは虹色に輝く。闇の中では何も見えない。私たちもステンドグラスと同様、神からの光を浴びて人々にキリストの姿を映し出す存在。 |
| ・ |
「牧会」とは何か:羊飼いキリストがその羊を守り、養い、迷子を探し出して群れに連れ戻し、「緑の牧場、憩いの水際」へと導く働き。 |
| ・ |
「牧師」は「羊飼い」ではない。「羊飼い」はただお一人、主イエス・キリストしかいない。では「牧師」は何か。群れの周りを羊が迷子にならないように走り回っている「牧羊犬」(賀来周一)にすぎない。 |
| 私の牧師としての心得: |
| ・ |
信徒の一人ひとりが神の光の中で虹色に輝くように配慮することが牧師としての務めと考えている。向かい合う人を自分の色に染めるのではなく、各自が自ら持つ色合いが輝き出るように援助すること。多くの場合、具体的には輝くことを妨げているもの(「罪」)をはずしてゆくよう援助すること。群れとしては、様々な色の絵の具を混ぜると灰色になってしまうが、灰色になるのではなくて虹色に輝くように配慮しサポートしてゆくことが、容易ではないが実に面白いことでもある。虹は雨上がりの陽光の中に出現する。人生の雨上がり(悲しみや苦しみに涙する後)に虹を見上げることができたらすばらしいと思う。 |
| ・ |
今回の主題である「個々人の恵み=神から与えられ、心の底からあふれ出てくるもの」を大切にしてゆく。輝くことを妨げているものが私たちの内外にはある。私たちには神の光が見えなくなっていることが多い(ブーバーはそれを「神の触」と呼ぶ)。悲しみや苦しみがそれを見えなくしている。それを一つひとつはずしてゆき、どのような時にも私たちが「インマヌエル」という揺るがぬ神の光の中に置かれていることを指し示す働きが牧会の働きであり、キリストご自身の牧会にみ業に参与するということ。 |
| ・ |
「ああこれでオレは、安心してジタバタして死んでゆける」(椎名麟三の受洗時の言葉)。・「死んでもいいですね。でも生きているともっといいですね」(CCUに入院中の坂上正道医師にカトリック神父が告げた言葉)。
・「ここからは・・・あの方がお供なされます」(遠藤周作『侍』より、処刑場に向かう侍に対して後ろから叫んだ従者・与蔵の最後の言葉)。 |
| ・ |
「信仰義認」とは、私たちが自らの行い(律法尊守)に頼るという「行為義認」ではなく、私たちがキリストのいさおしによってありのまま破れたままで義とされるという意味で「存在義認」のこと。 |
| ・ |
存在は行為に先立つように、DoingからBeingへの価値の転換が必要(ex. インターン中に慈愛園パウラスホームで出会った田代マジュ姉の笑顔施)。 |
| ・ |
「一期一会の今」を大切に生きる(サンディエゴのVITAS Hospiceで確認したこと)。
一期一会:One moment, one encounter. "Treasure every moment, for it will never
recur." |
| 神学的根拠:全信徒祭司性 |
| ・ |
すべての信徒は祭司としての役割を託されている。その中心には二つの働きがある:
(1)隣人→私→神(隣人のために執り成しの祈りをささげること)
(2)神→私→隣人(隣人に神のみ言葉を伝えること)
前提:「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ12:15) |
| ・ |
「教会」とは「聖徒の群れ」であって、そこにおいて「福音が説教」され、福音に従って「聖礼典が執行される」「場(関係)」 ← アウグスブルク信仰告白第7条 |
| ・ |
「教会」は、日曜日は「集められた礼拝共同体」
月曜日から土曜日までは「散らされた(ディアスポラの、派遣された)共同体」。そこでは信徒一人ひとりが「教会」であると言ってよい。 |
| ・ |
「全信徒祭司性」という場合、全信徒が「祭司」なのであって「司祭」なのではない。もちろんこれは主日礼拝において信徒のコラボレーションを排するものではないことは言うまでもない。礼拝における信徒奉仕者は「全信徒祭司性」に根拠を置くのではなく、むしろ教会の秩序とそれを守るための委託に根拠を置くであろう。 |
| ・ |
「全信徒祭司性」を強調するのであれば、むしろ月曜日から土曜日までの散らされた共同体としての信徒の働きに焦点を当てるべきではないか。この21世紀は、一人ひとりの信徒のウィークデーの働きを教会がどのように位置づけ、支え、励まし、バックアップしてゆくことができるかが問われているのではないか。主日に目に見えるかたちで一つのところに集められた礼拝共同体も、そこにこそ焦点を置くべきではないか。 |
| ・ |
宣教の最前線は、月曜日から土曜日まで、生活の現場にあって、一人ひとりの信徒が担っている。職場において、家庭において、地域において、グローバルな広がりにおいて。 |
| ・ |
「宣教」という場合、私たちは教会に人が集まることばかりを考えがちであるが(伝道セミナーもそうであった)、教会から世界の中にキリスト者が派遣されていることの意味をむしろ考えるべきではないか。そして「正義と平和と被造物の保全」(WCC/JPIC会議、1990)のために、信仰を同じくしない者とも大胆に連帯してゆくことが求められていよう。神はキリスト者だけの神なのではなく、全被造物の創造主なのであるから。 |
| ・ |
「あなたがたは地の塩、世の光である」と主イエスは言われた。塩も光も色としては透明であるように、キリスト者はこの世にあっては透明であって不可視でよいのである。塩はこの世が滅んでゆかないように防腐剤としての働きを有し、光は船が難破しないように人生の灯台としての働きを有している。 |
| ・ |
主キリストが常に少数者(マイノリティー)の側に立たれたように、私たちキリスト者もまたマジョリティー(多数者)ではなくマイノリティーの側に立ち続けてよいのではないか。日本におけるキリスト者の人口が1%未満であることは、嘆かわしいことではなく、むしろ誇るべきことなのではないか。私たちは、自らの数を増やしてゆこうとする宣教に仕えるのではなく、この世を保ち、正しく導こうとされようとして今も生きて働き給う現臨のキリストに仕えるのである。 |
| ・ |
「タコ足教会論」:他者のための教会、他のために犠牲となったタコの足が再生されるように、教会は手足を四方八方に伸ばしてゆく。教会はそこで他のために失われたとしても、そこで復活の命に与るのである。それにしても組織として他者のために自己を投げ出すということが、どのようにすれば可能であろうか。 |
| ・ |
教会は、ノアの箱船の時に大水の後に契約の印として空に輝いた虹のように、この世にあっては虹色に輝く存在である。信徒一人一人が異なる色合いを持っていてよい。神の光の中にそれをプリズムのように輝かせてゆけばよい。牧師は、そしてキリストにある兄弟姉妹は、私たちの内外にあって、それが虹色に輝かくことを妨げているものを一つずつ外してゆくためのお手伝いをするのである。神のインマヌエルという光は天地万物が揺らぐとも決して揺らぐことのない光なのである(滝沢克己「インマヌエルの原事実」)。 |