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東教区 第12回宣教フォーラム 「閉会・派遣礼拝」
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閉会・派遣礼拝
| 司 式 |
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杉本洋一牧師(田園調布教会) |
| 説 教 |
北尾一郎牧師(大岡山教会) |
| 聖餐補佐 |
平岡正幸牧師(三鷹教会)
神学生 |
| 聖書朗読 |
小宮俊作(蒲田教会) |
| 奏 楽 |
松浦 稔(大岡山教会) |
| アコライト |
池谷考史(神学生) |
聖書朗読 マタイによる福音書 9章:35節〜38節(P17)
35イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。36また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。37そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。38だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
説 教 「肩 うちふるわせて」 北尾 一郎牧師(東教区)
1、「働き手が少ない」
マタイ福音書9章のこのペリコペーについての説教を、私が最初に聞いたのは、高校3年の時でした。私の授洗牧師であるジョンスルード牧師の説教でした。もしその説教を聴かなかったなら、神学校を受験することもなかったと思います。
しかし、この「働き手」という言葉の意昧を、私はつい最近まで誤解していました。この「働き手」とは、牧師や宣教師のことだと。「町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あリとあらゆる病気や患いをいやされた」という主イェス・キリストのお働きを、それぞれの時代、それぞれの民族の中で担ってきたのは、確かに宣教師や牧師であリました。しかし、多くの宣教師が信徒宣教師であリましたし、信徒説教者であリました。
アンティ・ピトカネン(1862〜1938)も、そのような信徒説教者であリました。彼の職業は小学校の校長でしたが、余暇のあるかぎリ、讃美歌伴奏用のアコーデイオンを肩に、僻地の村々を歩いて伝道しました。多くの讃美歌を書いた詩人でもあリました。その作品の一つは、「日本へ、さあ、日本へ」という讃美歌です。彼はまた、渡辺忠雄牧師の妻となったシーリの父親でした。シーリさんは、晩年、この大岡山教会の礼拝でオルガニストとして奉仕しておられました。
大岡山教会の信徒の約半数は、幼稚園・教会学校の教師たちの証と働きが結んだ実であリます。信徒は、まぎれもなく主の「収穫」の「働き手」であリます。
2、肩うちふるわせて
その幼稚園で、私は最近、すばらしい経験をいたしました。6月14日のこと、私は年長組の礼拝に説教者として参加しました。円陣の中でお話をしている間に、ひとリの男の子が、私の膝に乗ってきました。私は彼を膝の上に乗せたまま、その礼拝を終えました。私は彼の言葉を聞いたことがあリません。彼はぎごちなく歩きます。そして彼はとびきリの笑顔を持っています。クラスの仲間も、彼だけが私の膝にいることを自然に受け入れていました。
すぱらしい経験というのは、その翌日にあったことです。私は別の用があって、幼稚園の階段を下リようとしていました。すると、「おはようございます」と呼びかけながら、数入の子どもたちが、階段を上がってきました。その中に、彼がいたのです。彼はあのとびきリの笑顔を私に向けました。しかし、笑顔だけではなかったのです。彼は、その小さな肩を上下にふるわせていたのです。それは、昨日膝の上に乗ったお爺ちやんの顔をまた見たという喜びの表現だと私は解釈しました。いつも彼のことを見守っているボランテイアの方々が、肩うちふるわせて喜びを表現している彼のことを見て、「おおっ!あの喜びよう」と言う声を上げておられたことも、よく覚えています。ほんとうは、私も彼を抱き上げて抱き締めたいと思いましたが、そのようにはできませんでした。
しかし、次の瞬間ひとリになった私は、溢れ出る感動の涙を抑えることができませんでした。このように肩うちふるわせて喜ばれたことは、私の生涯で初めての経験だったからです。その時、一つの聖書の言葉が私の心を満たしました。
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その1匹を見失ったとすれば、99匹を野原に残して、見失った1匹を見つけ出すまで捜さないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰リ、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める1人の罪入については、悔い改める必要のない11人の正しい入についてよリも大きな喜びが天にある」(ルカ11:1-1)。
見失った一匹の羊を担いで帰ってきたあの羊飼いもきっと"肩うちふるわせて"いたのではないかと思います。幼稚園の小さな兄弟の"肩うちふるわせて"私のような者を喜んでくださった映像が、今、ルカ福音書の羊飼いの映像と重なリました。そしてまた、この話をしてくださった主イエスの映像と重なるのです。
それだけではあリません。それほど遠くない将来、もし私も洗礼のお約束の通リ、主の御許に迎えていただくとすれば、天のキリストは"肩うちふるわせて"喜んでくださるのかもしれない、いや、主の裂かれた御体と流された血のゆえに、きっと私のような者のことも、`"肩うちふるわせて"喜んでくださると信じています。
もちろん、今そこに座っておられる「あなた」のことは、なおさらです。
3、宣教の源泉から
さて、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」という主イエスの言葉は、なぜ語られたのでしょうか。マタイによる福音書の編集者は、その理由を明確に語ってくれます一「群衆が飼い主のいない羊のように弱リ果て、打ちひしがれているのを見て深く憐れまれた(はらわたをつき動かされた)。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。…」。宣教の源泉です。
東教区を形成する私たちは、今日、宣教フォーラムに集められました。私たちは孤立してはいないことを学んだと思います。神がいかに多くの「働き手」、信徒・教職を起こし、豊かな賜物を与えて、この世界に派遣しておられるかを知らされました。そこに「宣教」への強い思いとたゆまない実践があることに改めて気づきました。そして、その実践は、「祈ることしかできないのです」という人において、最も忠実に力強くなされているということを教えられました。
しかし、同時に、私たちは、宣教への志を共にしながらも、「教会」の理解と、「宣教」の理念と、具体的な行動への方針の建て方について、お互いの間に、さまざまな違いがあることに気づきました。またお互いを誤解していることも分かったかもしれません。考えを論理的に表現できていないことや、日常の実践なしに机の上の議論をしているのではないか、という反省も与えられたかもしれません。
私たちの間には基本的なことがらについてのしっかリした共通理解がないかもしれません。また、互いの主張を本当に聴こうとする姿勢がないのかもしれません。
もしそうであるならば、そのことを悔い改めましょう。そうすれば、教会の主である復活のキリストは、"肩うちふるわせて"私たちを迎えてくださるにちがいあリません。その「深く憐れまれる」聖なる御心から、主イエス・キリストは、私たちの「一人ひとリ」を「共同の宣教」に遣わしておられます。 主の平和! アーメン。
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